河村城 (かわむらじょう)
最寄地 神奈川県足柄上郡山北町山北2305 2014.5.18
河村城 (かわむらじょう)
最寄地 神奈川県足柄上郡山北町山北2305 2014.5.18
登城ルート(緑線は車道)
畝堀
主郭・柵・門
主郭
城址碑
主郭東側堀切・橋
蔵郭
堀切・近藤郭
河村城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高80m 】
【案内・感想】 「盛翁寺」(表記番地)の東の道を南に約170m行くと、行き止まりに駐車場が用意されている[マップコード 57 669 415*12 ](地図)。
比高約80mの山頂は河村城址歴史公園として整備されており、主郭の北に「畝堀」で隔てられた「小郭」や「茶臼郭」、「お姫井戸」がある。
主郭の西に「馬洗場」・「西郭」・「馬出郭」があり、主郭の東に堀・木橋の架かる「蔵郭」(地図)、その東に深い堀で隔てられた「近藤郭」(地図)・「大庭郭」・「多地屋敷跡」などの郭が並んでいる 。主郭には柵・復元門、支城等の方向の標石や解説パネル、西に「河村城址碑」や祠がある。
【歴史】 河村城は平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ河村秀高によって築かれたとされる。
南北朝時代に入ると、河村氏は新田氏に協力し南朝方につき、北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ、1352年(南朝:正平七年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治と共に、この城に立て籠り、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃を凌いだとされる。しかし、南原の戦いで敗れ落城し河村一族の多くは討死し、新田義興・脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れたとされる。
その後、畠山国清や関東管領上杉憲実の支配を経て、足利持氏の属将、大森憲頼(氏頼の弟)の支配するところとなった。
戦国時代に入ると、後北条氏の支配下に入った。元亀年間(1570~73年)には甲斐国の武田信玄の侵攻の際に、補強され、その後、周辺の諸城とともに後北条氏と武田氏の間で争奪合戦があったとされる。
天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で、この城は落城し、廃城となった。