四稜郭 (しりょうかく) (国の史跡)
所在地 北海道函館市陣川町59 2014.8.4
四稜郭 (しりょうかく) (国の史跡)
所在地 北海道函館市陣川町59 2014.8.4
南側入口・説明板
石碑
虎口・土塁
四稜郭内部
突出部・スロープ
堀・土塁
四稜郭跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 道道100号線の「美原3丁目」交差点より北に道道347号線を約1.1km行き、右折約700m行った交差点を、左折し北に約660m行く。
「史跡四稜郭」(表記番地)に駐車場が用意され[マップコード86 258 600*00]、その西に防御用土塁を突き出した四稜郭跡がある。四稜郭の名称は四つの突起を持つ事に由来する。
幅2.7m、深さ0.9mの空堀に囲まれ、土塁の規模は東西約100m、南北約70m、幅5.4m、高さ3mである。
四隅の突き出した土塁には砲座が配置されている。南西側に門口があり、その後方に幅1mほどの通路が設けられている。郭内には建物は建設されなかったと考えられている。面積は約2万1500㎡を有する。
【歴史】 四稜郭は、箱館戦争の際に蝦夷共和国(箱館政権)が、明治二年(1869年)に五稜郭の背後を固めるための支城として、また東照宮(権現台場)を守護する為に北方約3㎞に洋式築城法により急造した。新台場、神山台場、新五稜郭などとも呼ばれる。
建設を指揮したのは大鳥圭介あるいはブリュネ大尉といわれている。建設には旧幕府兵卒二百人および近隣住民百人が徴用され、昼夜兼行の突貫工事で造り上げたと言われる。
しかし、堡塁としては脆弱であり、立て篭もるには手狭で井戸等の設備も存在しなかった。星形要塞であるものの、実際には野戦築城に近いものであった。
明治二年(1869年)五月十一日新政府軍は箱館総攻撃開始した。同日未明新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を出発し四稜郭の攻撃を開始した。
松岡四郎次郎率いる旧幕府軍は四稜郭の防御に努めたが、新政府軍には福山藩兵も加わり、さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため退路を断たれることを恐れた旧幕府脱走軍は五稜郭へと敗走した。
五月十八日には五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降伏して箱館戦争は終わった。
四稜郭以外に当時造られた星形要塞としては七飯町の七飯台場がある。こちらは漫画の吹き出しのような七稜形である。
昭和九年(1934年)1月22日、国の史跡に指定された。当時は周囲が耕作地になるなどして土塁が一部崩されていたが、昭和四十八年(1973年)に元の形に修復された。5月には、付近一帯は鈴蘭の花畑となる。