大類氏館 (おおるいしやかた)
最寄地 埼玉県入間郡毛呂山町大類112 2014.3.21
大類氏館 (おおるいしやかた)
最寄地 埼玉県入間郡毛呂山町大類112 2014.3.21
館跡・大薬寺
館跡・堀跡
十社神社・土塁
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 十社神社の南約200mに「大薬寺」(表記番地)と「大類公会堂」が並んで建っている付近が大類氏舘跡の南西に当たる。
南東の民家二軒を含む東西約180m、十社神社南の土塁(地図)まで南北約200mの方形の区画が大類氏館跡である。
付近には42基の古墳があり、古墳の一つに苦林野(にがばやしの)古戦場碑がある(地図)。
【歴史】 武蔵七党(横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党、児玉党、丹党)の一つ児玉党の始祖・遠峯から五代目・行綱の次男行義がこの地に来て大類氏(おおるいし)を名乗ったといわる。
行義から四代目の行光の時、観応二年(1351年)十二月十一日、京都より進撃した足利尊氏軍と鎌倉を出立した足利直義軍は駿河国の薩埵峠(静岡市清水区)で戦い、尊氏軍が勝利した。
この戦いで直義軍に加わっていた大類弾正行光・富田氏ら児玉党の一族は討死した。
貞治二年(1363年)鎌倉街道沿いの苦林野で鎌倉公方・足利基氏の軍勢三千騎と前越後国守護・芳賀入道禅可の軍勢八百余騎との間で合戦が行われ、基氏方が勝利した。
あまりの激戦で多数の戦死者が出たので、後世、文化十年(1813年)戦死者を弔う追悼碑が古墳の上に建てられた。西野博道編著『埼玉の城址めぐり』より。