市城砦 (いちしろとりで)
最寄地 群馬県吾妻郡中之条町市城1514 2019.1.23
市城砦 (いちしろとりで)
最寄地 群馬県吾妻郡中之条町市城1514 2019.1.23
登城ルート
説明板・登り口(黄が北部郭/緑が南部郭)
南部郭
配置図
通路・北部郭の切岸
西端の郭
北部郭の北東端の堀
市城砦南部郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高20m】
【感想】 吾妻川左岸の岩井堂砦の北400m付近にある崖端城で、北部郭は3段の郭が東西に階段状に並び、藪化している。北東に堀跡が見られる。
南部郭は扇状の平坦地があり、祠が祀られている。
【案内】 国道353号線の面したカフェ(表記番地)南に北部郭・南部郭の登り口があり(地図)、国道反対側に駐車できる[183 213 150*40]。
南部郭登り口に説明板が建てられ、階段が設けられている。北部郭の入口は、沢を挟んだ北側にあり、冬場は階段が見えるが、夏場は草で見えないかもしれない。北部郭南側の谷筋に田跡が階段状に並びその北側に切岸のある3段の郭がある(地図)。
【歴史】 岩井堂城(砦)は、白井城の長尾氏と吾妻勢との境目に位置し、関門の役割を担っていた争奪攻防の城であった。
元亀三年(1572年)武田信玄が白井城を攻略して以来、岩井堂城は真田方のものであったが、武田家が滅亡した天正十年(1582年)から北条氏政が上州に侵攻を開始した。
天正元年(1573年)信玄の死により、長尾左衛門による吾妻方面への侵攻回数が増えると、真田昌幸は、市城口岩井辺の要害には、富沢伊予・塩谷掃部・割田下総・佐藤将監を籠め、警戒を厳重にした。
天正十年(1582年)上州に北条氏政父子が出陣すると、昌幸は家康幕下になるべく出仕し、真田氏は岩櫃城に入り、北条氏は前橋城と沼田城に入った。真田方の市城岩井堂には、池田佐渡守・富沢伊予・同伊賀・湯本左京進が守備した。
天正十七年(1589年)秀吉による北条・真田和睦が整い、沼田城・小川城に北条軍が入り、真田軍は名胡桃城・羽場の城・箱崎城・猿が京城・岩櫃城に入り、市城には富沢大学・同伊予・蜂須賀伊賀・湯本左京が入った。
天正十七年(1589年)十二月、北条氏邦が白井に着陣し、大軍で岩櫃上に押し寄せた際に、真田軍も岩櫃以下各所の守りを固め、大手の市城表には、祢津入道・鎌原・日置五右衛門尉の700で備えた。
この市城が市城砦と推定され、真田昌幸により北部郭の一部として南部郭が築かれたと推察される。