福島城 (ふくしまじょう) (大仏城・杉目城・杉妻城)
所在地 福島県福島市杉妻町2 2014.4.15
福島城 (ふくしまじょう) (大仏城・杉目城・杉妻城)
所在地 福島県福島市杉妻町2 2014.4.15
説明板
福島県庁・城址碑
南側の土塁
阿武隈川
東側の 紅葉山公園・宝塔
福島城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 福島県庁敷地、紅葉山公園となり、県庁南に土塁の一部が残存している。阿武隈川河畔にあり、天然の堀の役目と同時に舟運の便もよかったと思われる。
【案内】 現在は福島県庁(表記番地)の敷地となり、城跡碑と説明板が県庁北正面に建てられている。
平城であり、城の東方と南方に阿武隈川や荒川が流れており、天然の要害として外堀の役割を果たしていた。
【歴史】 築城された年は不明である。応永二十年(1413年)に伊達松犬丸(後の伊達持宗)が懸田定勝とともに関東公方足利持氏へ反乱を起こし、立て籠もった大仏(だいぶつ)城が後の福島城といわれる。
大仏城は後に杉目(すぎのめ)城と改められ、天文の乱後は伊達氏家臣の牧野相模守の所領になった。
後、伊達晴宗が嫡子・輝宗に家督を譲って隠居した際に米沢城から杉目城へ移った。
このころの信夫郡(現在の福島市一帯)の中心的城郭は晴宗の弟・伊達実元の居城・大森城であり、杉目城は単に晴宗の隠居城としての性格でしかなかった。
その後、天正五年(1577年)に晴宗が死去すると、晴宗夫人・裁松院(久保姫)と晴宗末子・直宗が居住した(直宗は天正十二年に死去)。
天正十九年(1591年)の豊臣秀吉の奥州仕置で信夫郡が蒲生氏郷領になると、裁松院は杉目城を出て、孫の政宗に従って岩出山城へ去った。
蒲生氏郷時代に木村吉清は当初大森城へ入ったが、文禄元年(1592年)頃に杉目城(すぎのめじょう)を福島城と改称し、大森城から居城を移した。吉清は信夫郡5万石を与えられており、福島城が信夫郡の中心的城郭になったのである。
しかし文禄四年(1595年)秀吉の命により福島城は取り壊され、陣屋がおかれた。その後、上杉景勝時代には本庄繁長が城代となった。慶長五年(1600年)に伊達政宗が信夫郡に侵攻した際に福島城の北辺一帯(現在の福島市街地)は戦場になっている(松川の戦い)。
その後、信夫郡代官となった芋川正親は再び大森城を拠点としたが、寛文四年(1664年)に信夫郡が上杉氏から没収されると、天領を経て、延宝七年(1679年)に本多忠国が福島藩15万石の領主として福島城へ入った。
その後、天領、堀田氏時代を経て元禄十五年(1702年)に板倉重寛が福島藩3万石の領主として入城した。以来、幕末まで約170年間は福島藩板倉氏の居城として機能した。
幕末の戊辰戦争の時、板倉氏は奥羽越列藩同盟に参加して薩摩・長州を中心とした西軍と戦ったが、慶応四年(1868年)七月二十九日に二本松城が落城すると、藩主・板倉勝己は隣藩の米沢藩へ逃亡した。そして、同年九月二日、勝己は二本松城へ常駐していた西軍に降伏し、城は西軍に引き渡された。
明治二年(1869年)、板倉氏は三河国へ転封され、福島藩は消滅した。