花巻城 (はなまきじょう) (鳥谷ヶ崎城 )(とやがさきじょう)
最寄地 岩手県花巻市花城町5-13 2016.8.5
花巻城 (はなまきじょう) (鳥谷ヶ崎城 )(とやがさきじょう)
最寄地 岩手県花巻市花城町5-13 2016.8.5
御役屋跡(グランド)
花巻城跡碑
長屋前御門跡・石橋
御長屋跡
西御門
本丸跡・土塁
御台所前御門
鐘搗堂前御堀
花巻城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 市立花巻小学校(表記番地)に向かい[マップコード108 794 381*82]、その先の駐車場が利用できる。
小学校前の道を北に行くと右手に本丸入口がある。南北に細長い芝生広場となった御長屋跡があり、長屋前御門跡の石橋が堀にかけられている。北に行くと、案内板が建てられ西御門が復元(平成四年築)されている。本丸跡は広場となり、当日は児童プールなどのイベントが開かれ親子連れで賑わっていた。
南側に土塁が残り、御武具蔵跡、御台所前御門跡などの標柱が建てられている。東から「御囲御堀」、「鐘搗堂前御堀」、「鍵御堀」と名付けられた内堀が残っている。
「御役屋跡」はグランドとなっている。
【歴史】 花巻城の地は、「内史略」や「奥羽永慶軍記」等には、前九年の役の安倍頼時の城柵と伝えられているが、「二郡郷村志」では「往古誰人の初めて築くといふことを伝えず」としてはっきりしない。
室町時代、稗貫氏は十八ヶ城(稗貫郡宮野目村)を本城としていたが、享禄年間に本城を鳥谷ヶ崎(稗貫郡花巻村)に移した。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置によって稗貫氏は没落し、鳥谷ヶ崎城には秀吉の代官浅野長政が入部、長政帰洛ののちは同族浅野重吉が目代として駐留した。
しかし同年の冬、旧領を奪還しようと和賀氏と稗貫氏が一揆を起こした(和賀・稗貫一揆)。鳥谷ヶ崎城を含め稗貫氏の旧領も和賀・稗貫勢の手に渡ったが、翌天正十九年、再仕置軍の侵攻により一揆は鎮圧された。
同年中に稗貫郡は南部領と決められ、南部信直の代官北秀愛が城代として入り、城の改修が行われ、名称も花巻城と改められた。
天正二十年(1592年)の「諸城破却書上」には、「鳥谷崎 平城 南部主馬助 持分」とある。
慶長三年(1598年)に北秀愛が死去し、かわって父の北信愛が城代となった。
同五年(1600年)に南部氏が慶長出羽合戦へ出陣している間に、和賀忠親が旧領・和賀郡の奪還を目指して一揆を起こした(岩崎一揆)。
和賀勢は花巻城や、大瀬川館など周辺諸城を攻め、花巻城の三の丸、二ノ丸を攻略して本丸に迫ったが、援軍を得た北信愛(松斎)はそれを撃退した。
北松斎は慶長十八年(1613年)に死去するまで花巻城および城下町の整備に努めた。
その後、南部利直は次男政直に2万石を与え花巻城主とし、政直は花巻城を近世城郭として完成させた。その際に本丸に二層二階の櫓や多くの重層の城門が建てられた。一国一城令ののちも南部の抱え城として認められた。
政直急死以後は城代が置かれ、花巻城は和賀・稗貫二郡を統括する政治の中心地となったが、明治二年(1869年)に廃城となって取り壊された。