若松城 (わかまつじょう) (鶴ヶ城・黒川城) (国の史跡・日本100名城12)(日本さくら名所100選)
所在地 福島県会津若松市追手町1‐1 2012.10.3
若松城 (わかまつじょう) (鶴ヶ城・黒川城) (国の史跡・日本100名城12)(日本さくら名所100選)
所在地 福島県会津若松市追手町1‐1 2012.10.3
東側の内堀・廊下橋
東門跡
北側の椿阪・虎口石垣
南東にある茶室 麟閣
本丸・ 五重天守・南走長屋
五重天守・南走長屋・西側石垣
西出丸
若松城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 阿賀野川右岸の会津盆地にある平城で、三の丸跡の県立博物館前に駐車場が用意されている[マップコード97 262 192*44](地図)。
そこより南に少し歩くと、平成十三年のNHK時代劇「八重の桜」の看板があり、二の丸・伏兵郭を経て東門跡の虎口に向け内堀に架かる朱塗りの「廊下橋」がある。
本丸には昭和四十年(1965年)に復元された五重天守閣、及び平成十三年(2001年)復元の南走長屋・干飯櫓があり、破却前の赤瓦に復元(平成二十三年)されて、優美な姿で建っている。往事の石組の上に建てられた天守閣の中は鉄筋コンクリートの博物館になっている。本丸御殿跡の曲輪の松と芝が眼にも鮮やかである。
南東隅の土塁に土井晩翠の「荒城の月」の碑が立つ。同じく南東に茶室「麟閣」(平成二年移築復元)がある。北の椿阪虎口の石垣は壮麗で、多くの修学旅行の生徒で賑わっていた。西出丸は駐車場(地図)になっている。
昭和九年(1934年)年12月28日、国の史跡に指定された。
【歴史】 至徳元年(1384年)葦名氏の七代当主・直盛が居館を築いのが始まりとされている。戦国時代中後期、葦名氏中興の祖・盛氏が黒川城を中心に広大な版図を築いた。
天正十七年(1589年)葦名氏と戦いを繰り返していた伊達政宗は、豊臣秀吉の制止を無視して、葦名義広(享年14)を摺上原の戦いで攻め滅ぼし、黒川城を手にした。
しかし政宗は「惣無事令」に違反したとして、天正十八年(1590年)秀吉に会津を召し上げられた。代わって黒川城に入った蒲生氏郷は文禄元年(1592年)より大大名にふさわしい近世城郭に改造し、城下を整備して、若松城に改称した。翌、文禄2年望楼型七重天守櫓が竣功し鶴ヶ城と改称した。
慶長三年(1598年)氏郷の子、秀行は家中騒動のため宇都宮城に移封され、代わって上杉景勝が120万石で入封した。
慶長五年(1600年)徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝を30万石に下げ米沢藩に移封した。
翌年には蒲生秀行が再び入城した。寛永四年(1627年)秀行の長子・忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が蒲生氏を継ぎ伊予松山に移封となり、伊予松山城より加藤嘉明が入封した。
寛永二十年(1643年)加藤嘉明の子・明成は改易され、山形より徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封した。以後明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となった。
慶応四年(1868年)戊辰戦争の際には会津戦争で一ヶ月の攻防に持ちこたえたが、九代藩主松平容保(かたもり)は開城を迫られ新政府軍に降伏した。
明治二年から兵部省の所管となり、後に仙台鎮台が管理した。一旦は存城とされたが明治七年(1874年)一月には、「旧若松城は営所建築の場所であるので、石垣や立樹等を除き旧来の建物で必要無いものは取壊し払下げすべく取り計らう事」(陸軍省から仙台鎮台へ通達)とされ、同年までに天守をはじめとする建造物は全て解体された。