河村新城 (かわむらしんじょう)
最寄地 神奈川県足柄上郡山北町川西1105 2022.3.18
河村新城 (かわむらしんじょう)
最寄地 神奈川県足柄上郡山北町川西1105 2022.3.18
登城ルート(緑線は車道)
本城東の堀切
本城
二の丸・篠窪民部屋敷
説明板
櫓台
西側の堀切
河村新城 櫓台跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【感想】 河内川と鮎沢川が合流する地点に西より突き出た標高約345mの山頂に櫓台があり、東に茶畑や道路となった平坦地があり、東端に本城がある。
櫓台から北西側は、新東名高速道路開設工事に先立って発掘調査が行われ、訪れたときはかなり崩されていたが、柱穴の跡が整然と並ぶ櫓台と、西側の堀切はまだ残っていた。
【案内】 国道246号線の表記番地東より狭い道を登ってゆくと、防火水槽の標識がありその手前に駐車できる[マップコード57 723 537*00]。
その先から左斜めに登ってゆくと住宅地を過ぎたところにチェーンが張られており、徒歩で舗装道を登ってゆくと、茶畑となっている本城に着く(地図)。
本城の東に蔵郭がありその間に堀切が見られる。西に2郭、篠窪民部屋敷、櫓台がある(地図)。
【歴史】 小田原北条氏が甲斐国境に築造した出城(境目の城)で、たびたび争奪戦が繰り返された。
永禄十二年(1569年)武田信玄の小田原攻めの際には、湯ノ沢城・足柄城など周辺の九城と共に落城した。
天正九年(1581年)には武田勝頼の攻撃を受けている。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条氏の江戸城代であった遠山左衛門尉景政が守備していたが、家康配下の甲州勢が押し寄せ、兵31人が討ち取られて落城、その後廃城になったという。