山枝庵砦 (さんしあんとりで) (三枝庵砦・自得軒砦 )(じとくけんとりで)
最寄地 埼玉県入間郡越生町龍ケ谷452 2021.1.4
山枝庵砦 (さんしあんとりで) (三枝庵砦・自得軒砦 )(じとくけんとりで)
最寄地 埼玉県入間郡越生町龍ケ谷452 2021.1.4
説明板
登城ルート(緑線は車道)
西側舗装道・道標
砦跡
説明板
山枝庵砦跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 越生町龍ヶ谷の北側斜面に、谷戸構えの平坦地が2段になって見られ、北端の下段に仏像(天和二年)が祀られている。
堀や土塁などは見受けられず、説明板がなければ通り過ぎてしまうような場所だった。
【案内】 県道61号線より「龍穏寺」(表記番地)へ向かう[マップコード91 434 026*80]。
「龍穏寺」には太田道灌像が建てられ、本堂西に太田道真・太田道灌の墓がある。
山枝庵砦跡へは東側町道の橋を渡って右折、約450m登った峠より約200m下った右に空地がありそこに駐車できる(地図)。舗装道でハイキングコースになっているが、カーナビに道は表示されない。
南側に道標があり、10分で砦跡に着く。南から伸びた谷状地形の先端に説明板が建てられている。
説明板に記述はないが、南西の山頂は周囲に切岸状の斜面が見られ、南側に腰郭状の平坦地がある(地図)。
【歴史】 『新編武蔵風土記稿』の龍穏寺の項に「寺中三枝庵門前の小高き所にあり、此所古へ道真入道が居住せし所ならんといへり」とある。
永享二年(1430年)頃、太田道真(資清)は扇谷上杉持朝の執事として20歳の頃、龍ヶ谷の山中に龍穏寺を建立し、小さな砦を築き自得軒と名付けた。
当時は毛呂氏・越生氏等地方豪族の勢力があり、道真に従うことを嫌ったため、この奥深い山中に砦を築き防衛したものと思われる。 そして、永享四年(1432年)この砦で太田道灌(資長)が生まれた。
道灌は24歳で家督を継ぎ、長禄元年(1457年)に築城した江戸城、川越城、岩槻城を拠点に各地を転戦して勝利し、関東の安定に尽力した。
しかし、その戦功と高潔な人柄はかえって主君扇谷上杉定正の不興を買い、文明十八年(1486年)七月、相模国糟屋(現伊勢原市)の定正邸で謀殺された。
越生の自得軒で悲報に触れた道真は長享二年(1488年)八月三日、78歳の生涯を閉じた(「本土寺過去帳」から)。