盛岡城 (もりおかじょう) (不来方城)(こずかたじょう) (国の史跡・日本100名城6)
所在地 岩手県盛岡市内丸1 2013.8.11
盛岡城 (もりおかじょう) (不来方城)(こずかたじょう) (国の史跡・日本100名城6)
所在地 岩手県盛岡市内丸1 2013.8.11
盛岡城跡公園
二の丸跡・啄木歌碑
本丸跡・空堀に架かる渡雲橋
本丸石垣
本丸跡
盛岡城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道455線「裁判所前」交差点より、南に約300m行った「岩手公園下」交差点の西にコインパーキングがある[マップコード81 708 668*15] 。「盛岡城跡公園」の大きな看板があり、壮麗な石垣がめぐらされている。
大手道を登り、左に折れて歩くと、二の丸広場である。啄木の歌碑「不来方の城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」がある。
朱塗りの渡雲橋のある空堀を渡り、本丸に至る。南部利祥中尉像の台座が残る本丸から盛岡市街、岩手山の眺望はよい。桜が植えられて一帯が岩手城跡公園になっている。二の丸の北、東に水堀が残っている。
【歴史】 慶長三年(1598年)京都にあった南部信直は、嫡男の利直に築城を命じ、竣工は35年後の寛永十年(1633年)二代藩主重直(利直の三男)の時であった。
この間、慶長四年(1599年)信直が病没し利直が後を継ぎ、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に属したため徳川家康より所領を安堵された。慶長年間利直は地名を不来方から盛岡に改称し、城下の改修整備を行なった。
寛永十年(1633年)盛岡城完成に伴い三戸城より盛岡城に移った。寛永十一年(1635年)失火により本丸を焼失し、一時、福岡城(九戸城)を居城とした。
翌、寛永十二年には修復され、再び盛岡城に戻った。寛文四年(1664年)重直が世継ぎなく死去したため、徳川幕府は新たに七戸重信(利直の五男)に盛岡藩8万石を、同じく中里直好(利直の七男)に八戸藩2万石を与え分割相続させた。以後盛岡藩の政庁として明治維新を迎えた。
明治四年(1871年)廃藩置県により廃城とされ、明治三十九年(1906年)県の岩手公園として開放された。
昭和十二年(1937年)国の史跡に指定され、平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(6番)に選定された。