赤見城 (あかみじょう)
所在地 栃木県佐野市赤見町3572 2015.1.11 2019.6.12
赤見城 (あかみじょう)
所在地 栃木県佐野市赤見町3572 2015.1.11 2019.6.12
城跡碑・土塁
土塁・保育園
空堀(北側)
二重堀(西側)
土塁(南西側)
赤見城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 本丸跡は「赤見城保育園」(表記番地)敷地となり、本丸の周囲に土塁が巡らされ、北西から南西にかけて二重の空堀がよく残っている。
東側道路に面して城跡碑、城郭図(裏面由来説明文)の石碑(昭和五十年)が建てられている[マップコード64 664 014*24]。
本丸は堀を含め東西約75m南北約140mの広さで3~5mの土塁で囲われている。
十六世紀末の記録『唐澤三里四方出張改め』や口伝によれば、東西480m南北380mの規模を持ち、本丸の東に二の丸、南に三の丸、西に西の丸、東北に北の丸を配置し、いずれも土塁と堀で囲まれていた。
東西の方に二つの捨曲輪があり、南西は大湿地帯であったという。東北より出流川、西北より駒場川の水を最大限に利用したもので、その規模は現在の町屋全体に及び、多くの武士屋敷や防御陣地が構築されていた。
【歴史】 古記録によると、安元元年(1175年)藤原秀郷の子孫足利俊綱が築城し、治承二年(1178年)に居城したと伝えられる。
俊綱とその子忠綱は領地のことで新田義重と争い、平重盛を頼ったため、その後源頼朝と対立した。志田義弘の乱に於いて義弘に応じた為、頼朝の軍勢に攻められ、俊綱はその家臣に殺害され、忠綱もその後飛駒で討たれ足利氏は滅びた。
ところが俊綱の弟佐野成俊・有綱はそのあとを継いで佐野氏が興隆することになった。赤見城は佐野基綱を頼って落ち延びたと称する源義仲の子岩崎義基の所領となって、建仁元年(1201年)より、その家臣戸賀崎義宗・荒川満氏・戸賀崎清氏・荒川氏重・同詮長・赤見仲村・同義重等が約200年間居城したと云われる。
その後応永十二年(1405年)から関東管領足利持氏の支配となり、家臣が在城した。
文明三年(1471年)足利成氏の家臣南式部大輔父子が赤見城を守っていたが、上杉家の家臣長尾景信に攻められ落城した。
永正十二年(1515年)から赤見六郎左衛門が居城し約30年間その勢力を保持した。佐野盛綱・泰綱の代になり赤見氏は佐野氏と対立した。佐野氏は不意に夜襲した為、赤見父子は常陸に母系を頼って逃れた。
佐野昌綱の代になり和睦し、佐野武士団の有力な一員となった。この間赤見城は唐沢山城の重要な支城として、隣国足利の長尾氏との攻防の拠点となった。
佐野宗綱戦死の後、北条氏忠が佐野氏忠として尾形山城に迎えられ、佐野庄は大部分北条氏の勢力下に置かれた時、赤見氏は岩崎氏などと共に反北条氏の中心的役割を果たし天徳寺了伯と関係し秀吉と結び、佐野家再興の原動力となり赤見城がその拠点となった。
徳川時代の慶長十九年(1614年)佐野信吉の改易により、廃城となった『佐野市文化財保護審議委員会撰』(年号一部訂正)。