田鎖城 (たくさりじょう)
最寄地 岩手県宮古市田鎖第1地割34 2017.10.26
田鎖城 (たくさりじょう)
最寄地 岩手県宮古市田鎖第1地割34 2017.10.26
登城ルート
鉄塔・民家先より鉄塔管理道あり
東尾根の堀切
東尾根先端の社
主郭・鉄塔
主郭西側(奥に鉄塔)
主郭南西の2重堀切
田鎖城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【感想】 閉伊川右岸の田鎖山塊の北東先端(標高約61m)にあり、主郭・帯郭・2郭・堀切が残っている。
当初、登り口が判らず東端から直登した。笹藪で覆われ何度も引き返そうと思ったが、遠隔地まで来たので我慢して遺構を探してみた。
【案内】 国道106号線より左折県道200号線に入り、閉伊川を渡ってすぐ右折、約200m西を左折して集落西外れに入口がある[マップコード286 138 732*82]。付近に駐車スペースは無い。
入口より西に行った表記番地庭先から鉄塔管理道が西に伸びている(地図)。
管理道を登ると尾根に出、右(東)に行くと2郭で自然地形に近いが東側に切岸の段差が見られる。さらに東に笹藪を分け入り尾根東端に社(民家裏に当たる)が祀られている。
戻って、管理道を西に登ると堀切があり、鉄塔の建つ主郭がある。主郭は広く荒れているが、帯郭を備えている。南西に歩いてゆくと2重堀切が見られた。
【歴史】 南北朝期の永和年間(1375~79年)閉伊一族が田鎖氏(多久佐利氏)を名乗り、中根城から移って居城としたとされる。
室町・戦国時代の閉伊一族は閉伊川沿岸地域に分散して、閉伊源氏と称され、室町時代末期、その一族の本宗と称するのは田鎖城に在城しているが、その本末は判明しない。
天正十九年(1591年)、九戸政実の乱のときに桜庭安房の説得にもかかわらず、対岸の千徳氏など共にいずれの味方もせずに静観の態度をとり続けたが、朝鮮の役で千徳氏などと九州名護屋へ出陣し、留守の間に南部氏によって田鎖城は千徳城と共に取り壊された。
天正二十年(1592年)の「諸城破却令」書上には「田鎖山城 破 佐々木十郎左衛門 持分 唐之供 留守兵庫」とのみ記されている。