磯部館 (いそべやかた)
所在地 茨城県桜川市磯部772 2018.4.19
磯部館 (いそべやかた)
所在地 茨城県桜川市磯部772 2018.4.19
登城ルート
館跡標柱
桜川磯部稲村神社・紀貫之の歌碑
東側1条目の空堀
東側2条目の空堀
土塁上の祠
土塁の先端部石垣
磯部館跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 周囲より1mほど高い桜川磯部稲村神社境内となっている。特に東側の空堀は深さ3m以上あり、土塁を挟んで少し浅い空堀が南北100mに亘って残っている。
空堀はL字状で、先端部に祠、石垣があり、それに囲まれる南東側民家敷地や空き地も居館跡と思われる。
【案内】 市立「岩瀬東中学校」の南、「桜川磯部稲村神社」(表記番地)境内となっている。
境内には紀貫之の「つねよりも春べになれば桜川波の尾こそまなくよすらめ」の歌碑が建てられている。また拝殿左に鹿島神宮の鯰の頭を抑えた要石に対して、鯰の尾を押さえたという要石がある。地震が起きると鯰が暴れているという言葉を思い出す。
城跡遺構としては東側に2重の空堀が残っている。また、南西300mには花見の名所「桜川公園」がある。
【歴史】 史実は明らかでないが、笠間氏家臣磯部氏の居館と思われる。この地は下野と常陸の境目にあり、富谷城の益子氏側に対して、磯部館は笠間氏側の最前線であったという。
境内の説明板によると、永享十年(1438年)桜川磯部稲村神社の神主磯部祐行は関東管領足利持氏に花見噺「桜児物語」1巻を献上した。この物語をもとに将軍足利義教が世阿弥元清に作らせたのが謡曲「桜川」とされている。
世阿弥元清は6代将軍足利義教から疎まれ、永享六年(1434年)には佐渡に流されているので年代が合わないが。また、足利持氏は鎌倉公方であり整合性に問題がある。