ハママシケ陣屋 (荘内藩ハママシケ陣屋・浜益毛陣屋) (市の史跡)
最寄地 北海道石狩市浜益区川下6 2017.7.15
ハママシケ陣屋 (荘内藩ハママシケ陣屋・浜益毛陣屋) (市の史跡)
最寄地 北海道石狩市浜益区川下6 2017.7.15
説明板
八幡神社参道・看板
陣屋門
分岐・概要板
郷夫長屋跡
奉行長屋跡
井戸
ハママシケ陣屋跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 浜益川右岸の丘陵南斜面に築かれており、16万8千㎡に及ぶ広い陣屋である。草や隈笹に覆われているが、五十間堀や千両堀が残っている。
長屋跡には案内板が建てられ、最高所の奉行長屋跡には井戸も残っている。奉行長屋跡東の小川には石橋がある。
【案内】 石狩市街より国道231号線(オロロンライン)で留萌方面へ向かう。浜益区川下集落北部の川下八幡神社北東に駐車できる[マップコード794 602 280*51]。
八幡神社鳥居前を東へ歩くと陣屋大手門(冠木門)が建てられ、説明が建てられている。少し行くと道が分かれ、右に行くと郷夫長屋跡や50間堀がある。
戻って左に行くと、兵糧蔵・元締長屋跡、上段に奉行長屋跡があり井戸が残っている。
昭和六十三年(1988年)5月17日、石狩市の史跡に指定された。
【歴史】 この地は、宝永三年(1706年)松前藩によって益毛場所が開かれ、その後「浜益毛」から「浜益」となった。
幕末、ロシアの南下により北方の緊張が高まった安政六年(1859年)、幕府は東北6藩に警備を命じた。
荘内藩には西蝦夷が割り当てられ、万延元年(1860年)ハママシケ陣屋(元陣屋)が設けられ、脇陣屋が留萌、苫前、天塩に設けられた。
初代奉行は荘内藩中老の松平舎人(とねり)、2代目を中老の酒井玄蕃(げんば)、3代目を組頭の里見弘記(こうき)が務めた。
慶応四年(1868年)戊辰戦争の勃発により引き上げが始まり、9年に及ぶ西蝦夷の統治は終わった。