大鳥城 (おおとりじょう) (鵬城)
最寄地 福島県福島市飯坂町中赤舘24-1 2014.4.15 2020.1.18
大鳥城 (おおとりじょう) (鵬城)
最寄地 福島県福島市飯坂町中赤舘24-1 2014.4.15 2020.1.18
登城ルート(緑線は車道)
三ノ砦(東展望広場)
一ノ砦
主郭跡・北側階段
主郭跡・舘山
佐藤基治公一族追善供養塔
堀切・矢庫跡(右)
矢庫跡
大鳥城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 飯坂野球場の西「福島市水道局舘ノ山浄水場」(表記番地)より西に登り、頂上下まで車で行ける[マップコード76 277 417*48]。
階段を上ると「舘ノ山公園」となっている主郭跡で、西端に祠、忠霊塔、城跡石碑、説明板が建てられている。東斜面の大手道の遊歩道に沿って「一ノ砦」、「ニノ砦」(藪化している)、「三ノ砦」の曲輪がある。またニノ砦西の谷と主郭北西道路横に水の手(井戸)が残っている。
2011年3月11日の大地震の後に発生した福島第一原子力発電所事故(3月15日)の放射能除染のため土砂が入れ替えてあり、自動測定器は0.172マイクロシーベルトを表示している。桜が満開で頂上からは福島盆地が一望できる(2020.1月現在の測定値は0.102)。
南には小川、北側には赤川、東には摺上川(すりかみがわ)が流れ、大鳥城の堀の役目を果たしている。山頂部には主郭、その西側には「矢庫跡」と呼ばれる郭が見られる。
山頂部は平成七年(1995年)の発掘調査により(福島市埋蔵文化財発掘報告書第 号 大森城・大鳥城二)十四世紀の輸入陶磁器等が出土し、主郭は後世の造営と考えられる。
佐藤基治が在城中の居館は、現在大鳥中学校、飯坂野球場(赤舘という地名が残る)が立地する東山麓部分にあったものと推定されている。そのさらに東側には大門の地名が残っており、大鳥城への大手門があったと推定される(現在は温泉集会所、大門の湯が存在する)。『福島市教育委員会説明板』より。
【歴史】 大鳥城は源義経の郎党、佐藤継信・忠信兄弟の父信夫庄司(湯庄治とも)佐藤基治(元治)の居城であった。
治承四年(1180年)佐藤継信・忠信兄弟は義経に従って屋島の合戦に出陣し継信は義経の矢楯となって討死した(行年36歳)。寿永四年(1185年)忠信は吉野山にて義経一行を救うも捕えられて、文治二年(1186年)京都にて自刃した(行年34)。
文治五年(1189年)八月、佐藤基治・長男前信以下主だった将が石那坂(石名坂)において陣を敷き、源頼朝率いる奥州征伐軍と戦って敗れた(石那坂の戦い、基治は戦死・行年73歳)が、その後八月十三日大鳥城も落城した。佐藤一族はその後赦され、本領の大鳥城にしばらく居城していたと考えられる。
以後十三世紀に入り、伊勢地方に転封となり(吾妻鏡)、一部は郷士として飯坂の地に残った(大鳥城記)、全国佐藤姓の源の一つである。