冥護山館 (みょうごやまだて) (明子山城・冥加山城・名号山城)
最寄地 宮城県伊具郡丸森町大内下白井田87 2020.1.26
冥護山館 (みょうごやまだて) (明子山城・冥加山城・名号山城)
最寄地 宮城県伊具郡丸森町大内下白井田87 2020.1.26
登城ルート(緑線は車道)
2重横堀・標柱
扇枡形南西の横堀
扇枡形南の横堀
西の土塁・横堀
本丸・虎口
本丸(北から振り返る)
冥護山館跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高20m】
【感想】 丸森町大内の標高78mの丘陵に築かれており、南北に細長い本丸と南郭から構成されている。
本丸には虎口・土塁、南郭南端には土塁が残り、南に扇枡形がある。
西から南にかけて横堀が残り、南西側は3重、4重になっている。
【案内】 南側を通る県道245号線より橋を渡った無線塔前に説明板が建てられている。
北に400m程ゆくと墓地があり左側の建物前に駐車できる[マップコード332 219 453*70](地図)。墓地前に説明板が建てられている。
案内図の「人溜り」が本丸で、「本陣」が南郭となっている。南西側に2重、3重の横堀が残っている。
【歴史】 永禄八年(1565年)六月伊達家14代稙宗が隠居していた丸山城で亡くなった。
その直後から伊達家と相馬家は天正十二年(1584年)まで約20年間、伊達家は晴宗・輝宗・政宗、相馬家は顕胤・盛胤・義胤の3代にわたって争った。
伊達勢の陣地は、小斎矢ノ目館に置き、相馬勢は丸森・金山・小斎柴小屋に布陣した。
冥護山館は金山城と小斎柴小屋城の中間にあって戦略的に重要な所であり、初め相馬方により築かれ、のち伊達勢が金山城と共に攻め取り拠点にしたとされる。
西向かいの西山館には伊達成実(亘理)が布陣したが、天正十二年(1584年)以降、明館となった。