浅瀬石城 (あせいしじょう) (汗石城・浅石城)
最寄地 青森県黒石市浅瀬石山辺183 2014.8.3 2015.7.5
浅瀬石城 (あせいしじょう) (汗石城・浅石城)
最寄地 青森県黒石市浅瀬石山辺183 2014.8.3 2015.7.5
登城ルート(緑線は車道)
城趾碑・入口
舘神社
主郭・南側空堀
主郭跡
北側切岸
浅瀬石城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 浅瀬石川の支流と南の二股沢へ突き出た比高20m程の舌状台地の先端にある。
国道102号線より東北自動車道黒石ICの東を抜けて、浅瀬石川支流に架かる橋の先を右折、支流に沿って300mほど行った地点に縄張り図、城趾石碑が建てられている[マップコード71 119 883*54](地図)。道路横に「舘神社」が祀られている。
入口より登った城址は、現在リンゴ園となっている。南側に空堀が残り、北側に切岸が確認できる。
【歴史】 仁治元年(1240年)、千徳氏(浅瀬石氏)の祖である一戸行重(千徳城主)が築城したとされるが、その根拠とされる『黒石星田家文書』の千徳系図は不審な点が多く、詳細は不明である。
戦国時代、城主の千徳政氏が南部氏を裏切って津軽為信(大浦為信)と同盟を結んだ。
すると、激怒した南部信直は東政勝を攻手として天正十三年(1585年)四月、3千の軍勢で浅瀬石城を攻撃したが、これを撃退した(宇杭野の合戦)。
しかし、この合戦で為信が援軍を出さなかった事により後の不和の原因となったといわれている。
慶長二年(1597年)二月、千徳政康の代に津軽氏との同盟が破綻し、寝返った重臣木村越後らが本丸を急襲、森岡金吾(信元)などの津軽軍2千5百人の攻撃を受け、2千の城兵は奮戦したが落城、政康は自害し、廃城となった。