大蔵館 (おおくらやかた) (県の史跡)
所在地 埼玉県比企郡嵐山町大蔵522 2015.1.24 2020.8.22
大蔵館 (おおくらやかた) (県の史跡)
所在地 埼玉県比企郡嵐山町大蔵522 2015.1.24 2020.8.22
南側土塁
舘趾碑・土塁
土塁・西側空堀
西側空堀
源義賢御廟堂
大蔵館跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 嵐山町の大蔵神社(表記番地)敷地となっている[マップコード91 684 867*60]。
鳥居の横に説明板、県道に面した南東の土塁に「史蹟大蔵舘趾」の石碑、説明板が夫々建てられている。境内の南から西にかけて土塁が残り、西に空堀が残っている。
規模は東西170m、南北200m余りである。約100m東の民家の竹林に土塁の残欠が認められる。城山稲荷が祀られている。
昭和九年(1934年)3月31日、埼玉県の史跡に指定されている。
また、東方200mほどの所に源義賢御廟堂があり、道路北に源義賢の墓がある(地図)。御廟堂には義仲、その子義高など義賢ゆかりの武将の供養碑が建てられている。
【歴史】 源氏の棟梁六条判官源為義の次男・東宮帯刀先生源義賢の居館で、義賢は上野国多胡館より移り、当地を拠点として武威を高めたが、久寿二年(1155年)八月十六日、源義朝の長男である甥の悪源太義平に討たれた。
義賢の次男で当時二歳の駒王丸は、畠山重能に助けられ、斎藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられた。これがのちの旭将軍木曽義仲である。『埼玉県説明板』より。
寿永三年(1184年)一月、宇治川や瀬田の戦いに敗れた義仲は、今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びるが、20日、近江国粟津で討ち死にした。
嫡男・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいたが、鎌倉街道を大蔵の地へ向け逃れる途中、頼朝の追手に討たれた(12歳)。