高畑城 (たかはたけじょう)
最寄地 青森県平川市高畑熊沢129 2014.8.3 2016.6.7
高畑城 (たかはたけじょう)
最寄地 青森県平川市高畑熊沢129 2014.8.3 2016.6.7
高畑城跡標柱
神明宮
堀跡
高畑城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道13号線より県道135号線を東に約200m行った神明宮(表記番地)入り口に「高畑城跡」の標柱が建てられている[マップコード323 819 722*43](地図)。
神明宮の北方に堀跡(地図)がある。横を沢が流れている。高畑城は、本郭・二郭・三郭があったとされるが、宅地となり判然としない。
【歴史】 戦国時代、乳井薬師堂の乳井城(大隈館)の館主にして、乳井福王寺の別当である乳井玄蕃は周辺に武威を振るい、南部氏とも対立していたが、玄蕃は大光寺城主滝本重行に永禄八年(1565年)六月五日暗殺された。
玄蕃の子乳井建清は、若年のため、仇討ちを自重していた。高畑城はこの頃滝本重行が建清への備えとして築かれ、家臣の平岡惣右衛門盛影が城主となった。
元亀二年(1571年)、大浦為信(津軽為信)は石川城・和徳城を急襲し、石川高信を討ち取った。
乳井大隅建清もそれに呼応し高畑城を急襲し、平岡盛影を討って、高畑城主となり、大浦為信に臣従した。
そのため、為信を討とうと南部信直が勢多石隠岐守を送り、攻め込んだが建清は善戦し、その間に兼平綱則が150人で応援に駆けつけ、さらに九戸政実の謀反の噂が届いたため、勢多石勢は三戸に引き上げた。
天正七年(1579年)年七月、比山六郎・七郎、北畠顕則・滝本重行らが平賀郡に侵入した。この時、城主建清が留守であったため、急襲され落城した。
この時、乳井城・乳井茶臼館・乳井古館も落城した。しかし、大浦勢と六羽川で激突した比山勢は六郎が討ち取られ、大館に撤退した(六羽川合戦)。その後の高畑城については明らかでない。