館林城 (たてばやしじょう) (尾曳城)
所在地 群馬県館林市城町1‐3 2013.12.29 2019.6.12
館林城 (たてばやしじょう) (尾曳城)
所在地 群馬県館林市城町1‐3 2013.12.29 2019.6.12
本丸・土塁
南郭・土塁
復元土橋門
城跡標柱・説明板
三の丸土塁・堀跡
十貫門碑
大手門跡(石碑)
館林城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 館林城は、現三角公園に大手門跡石碑が建てられている(地図)。
また現文化会館敷地の三の丸に復元土橋門(地図)、土塀、城跡標柱が建てられ、土塁が残っている。
東に、館林市市役所敷地となった二の丸があり、北に十貫門石碑が建てられ(地図)、往時を偲ぶことが出来る。
その東に「田山花袋文学館」(表記番地)・「向千秋記念子ども科学館」の建つ本丸があり、東約100mにある「尾曳公園駐車場」が利用できる[マップコード64 245 898*88](地図)。
本丸には綱吉の時三層櫓があった土塁が残る。南に広場となっている南郭、本丸の東へ八幡郭と並び城沼に突き出した舌状台地を土塁と塀とで区画して造られていた。
【歴史】 室町時代、赤井照光によって築かれたといわれる。
戦国時代に入り、越後上杉氏、甲斐武田氏、相模北条氏の三つ巴の攻防の中で、長尾氏、北条氏が館林城を支配するようになったが、天正十八年(1590年)の家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が十万石で城主となった。
榊原家三代、大給松平家二代の治世を経て、四代将軍家綱の弟綱吉が寛文元年(1661年)、25万石で入封した。
延宝八年(1680年)綱吉が家綱の養子となって五代将軍になると、その子徳松が家督を継いだが、天和三年(1683年)急死すると廃藩され天領となり城も壊された。
宝永四年(1707年)松平清武が2万4千石で城主となり、のち5万4千石に加増され城を縮小して再興し、越智松平家2代が続いた。その後太田氏2代、越智松平家3代、井上氏1代、高擶城より秋元氏2代と城主が替り、明治を迎えた。
秋元礼朝は戊辰戦争で新政府軍につき関東東北方面へ部隊を派遣した。明治三年(1870年)廃藩となり館林県になった。
明治七年(1874年)城の大半は火災により焼失した。