千本城 (せんぼんじょう) (教ヶ岡城) (県の史跡)
最寄地 栃木県芳賀郡茂木町町田1706 2015.2.14
千本城 (せんぼんじょう) (教ヶ岡城) (県の史跡)
最寄地 栃木県芳賀郡茂木町町田1706 2015.2.14
登城ルート(緑線は車道/緑丸は二の丸)
城跡碑・説明板
侍屋敷跡
二の丸跡
本丸切岸・空堀
本丸虎口
本丸・土塁
本丸・土塁・羽黒神社
千本城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国道294号線「千本」交差点より県道338号線を約550m東に行った交差点を北へ約1.6㎞行く。表記番地より南西に林道を約400m行くと「茂木町千本・城山配水場」がある[マップコード188 843 520*85]。そこより右に登ると、説明板、「千本城跡」の石碑(地図)が建てられている。
東西約50m、南北約160mの広い侍屋敷跡が二段になってあり中間に土塁が残っている。
その東側を行くと土橋虎口のある二の丸跡(地図)に駐車できる。 西に腰郭があり、土塁が残っている。その中間より北に土塁道を通って行くと空堀、土橋があり本丸の虎口土塁がある。東西約35m南北約120mと細長い本丸は土塁が巡らされ、北端に神社(表記番地)が建てられている。
昭和四十五年(1970年)3月13日、県の史跡に指定された。
【歴史】 那須資隆の十男為隆が建久年間(1190~99年)千本を領し、教ヶ岡(千本)城を築き、千本氏の祖となった。為隆の兄九人と与一宗隆も那須の地(家紋は横一文字)を分知された。
那須十氏の那須衆経隆は、元弘三年(1333年)新田義貞に従い、茂木知貞と共に鎌倉を攻め鎌倉幕府を滅亡させる功績を残した。
資俊は、永禄十年(1567年)上那須、佐竹の連合軍との那珂川大崖山の戦いで、茂木三郎知基と同心し那須資胤軍に加わり敵を打ち破った。
資俊は芳賀高定と謀り、天文二十年(1551年)一月千本城内に鳥山の那須高資を誘い暗殺した。その為資俊・資政父子は、天正十三年(1585年)十二月八日高資の子・資晴の陰謀に遇い鳥山の大平寺で暗殺され、千本城は落城した。
ここで千本氏は一時断絶したが茂木三郎の次男四郎義政が千本大和守義隆と称し千本城に入った。ここに茂木系千本氏が誕生した。
義隆は、天正十八年(1590年)豊富秀吉の小田原征伐に従い、芳賀郡内に2070石の朱印地を与えられ、秀吉の朝鮮出兵の際には、肥前の名護屋に参陣した。
その子義定は関ヶ原の戦いで徳川家康に従い、慶長七年(1602年)千石の加増を受け3370石の旗本となった。町田・千本中根・田野辺の三村を知行所とし、大門に陣屋を設け家老大谷津氏を置き支配させ、自らは江戸屋敷に居住した。
和隆は、寛永八年(1631年)小姓組に列し、浅草御厩・久能山日光の堂の普請を奉行した。
朋隆の時、明治維新を迎え、慶応四年(1868年)八月朋隆は、軍監鍋島監物に属し、会津近領の三依宿まで進軍し、その結果旧領は安堵された。
明治三年(1870年)九月日光県の所轄となり、翌年宇都宮県に属し、明治六年栃木県所轄となった。
朋隆は、明治十四年(1881年)三月六日病死し、菩提寺の千本長安寺に葬られた。『茂木町教育委員会説明板』より。