西明寺城 (さいみょうじじょう) (高館城)
最寄地 栃木県芳賀郡益子町益子4469 2014.4.10
西明寺城 (さいみょうじじょう) (高館城)
最寄地 栃木県芳賀郡益子町益子4469 2014.4.10
登城ルート(緑は西明寺裏の曲輪)
西明寺山門
西明寺北の曲輪跡
高館山登り口・碑・説明板
説明板
主郭跡・土塁
北側土塁
主郭北側虎口・土塁
北側の堀切
北の郭北の堀切(反対側)
西明寺城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 西明寺の東の標高301.7mの高館山頂上に本丸跡がある。西北西約2kmには益子城がある。
『大日本史』に南朝方の関東6城「関城・真壁城・大宝城・伊佐城・中郡城(以上常陸国)・西明寺城(下野国)」の一つとして紹介された最北端の城である。山頂を中心に北、西、南の三方の尾根に連続的に曲輪を配置している。
県道262号線の高館山下の峠北に駐車場があり、「西明寺城跡」の由来看板と漢詩「益子城懐古」の石碑が建てられ、横に登り口がある[マップコード39 149 201*18](地図)。
比高約40mの遊歩道を登り、虎口を入ると曲輪がある。北に一段高く主郭があり北端に土塁、虎口が残る。
虎口を抜けて北に行くと、堀切、北の郭がある。北の郭は細長く北端の尾根に深い堀切があり、階段が設けられている。
また、西明寺(表記番地)の本堂脇の遊歩道を登って北に行くと空堀なども見え、曲輪跡(地図:公園となり城跡の碑など見当たらない)に展望台が設置されている。また、一段低く曲輪がある。本堂裏の曲輪跡から東に少し行き県道262号線を250m程登ってゆくと、前述の登り口に至る。
昭和四十八年(1973年)2月7日、益子町の史跡に指定された。
【歴史】 『下野国誌』によると、京都から移住してきた紀氏(後の益子氏)が本拠を構え、康平年間(1058~65年)紀権守正隆によって築城されたとされる。『大日本史』に「(南朝)官軍所保六城 而西明寺地勢隔絶 消息不通」とある。
南朝官軍の拠城として西明寺城が活躍したのは、延元・暦応・興国年間(1336~46年)である。
戦国時代に入ると、益子氏は一族内で内紛が続発し、衰退していった。また、主家の宇都宮氏から離反と帰順を繰り返すようになった。
天正十七年(1589年)三月、益子宮内少輔家宗の時、主家宇都宮氏に背き、宇都宮国綱は芳賀高継・玉生高宗と共に大規模な討伐を実行し、家宗を誅殺し、益子氏の領地を没収した。
慶長二年(1597年)に宇都宮氏が豊臣秀吉によって改易されると西明寺城も廃城となった。『益子町教育委員会説明板』より。