十狐城 (とっこじょう) (独鈷城)
最寄地 秋田県大館市比内町独鈷大日堂前10 2017.4.25 10.27
十狐城 (とっこじょう) (独鈷城)
最寄地 秋田県大館市比内町独鈷大日堂前10 2017.4.25 10.27
登城ルート
南側市道からの大手道
空堀・2郭
二郭
二郭主郭間の空堀・主郭切岸
主郭虎口・城跡碑
主郭
主郭北郭間の空堀
十狐城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高20m】
【感想】 大手道は、主郭と二郭の幅40mくらいの空堀に通じている。
二郭(西郭)は東西約30m南北約100mと細長いが広い。二郭下に「米蔵跡」の標柱が建っている。
主郭は東西約50m南北約70mとこれまた広いが、笹が多く手入れは良くなかった。
主郭と北郭及び東郭の間に、深い空堀がよく残っている。
【案内】 「大館市民舞伝習館」(表記番地)へ向かう県道22号線より左折し、50mほど行くと左に大手道があり[マップコード229 388 393*60](地図) 、更に50m先の左側が広くなり、駐車できる。
「大館市民舞伝習館」からも少し遠いが城跡への遊歩道が設けられている。
大手道を登ると間もなく左手に二郭(西郭)(地図)が見えてくる。米蔵の標柱よりの東に行くと主郭がある。
空堀をそのまま北へ行き少し下って右に登ると、北郭との空堀があり、さらに行くと土橋に出、右に東郭との空堀があり湿地帯となっている。
土橋を通って東郭に行け、東郭の東にも空堀が残っている。
北郭と東郭はともに鬱蒼とした杉林となっている。
【歴史】 築城時期ははっきりしないが、十狐城はこの地の豪族・浅利氏の居城であった。
文治五年(1189年)源頼朝による奥州征伐の功により浅利義遠が比内郡の地頭となった事に始まる。
永正年間(1504~21年)、浅利則頼は十狐城を築き、比内郡一帯に勢力を拡大した。
天文十九年(1550年)則頼が没すると、嫡子則祐が跡を継いだ。しかし、則祐の弟勝頼の謀略により安東勢に攻められ、永禄五年(1562年)自害に追い込まれた。勝頼は中野城より十狐城に移り浅利氏を継いだ。
天正十年(1582年)、父・勝頼が安東愛季に暗殺され、子の頼平は被官として安東氏に従属していたが、独立心が強く、浅利氏再興を目指す頼平は次第に安東氏からの離脱を画策するようになった。
その動きを察知した安東実季は、文禄年間に豊臣秀吉の惣無事令(私闘禁止令)を犯し、比内浅利領に攻め入った。
豊臣政権下で紛争解決が膠着する中、浅利頼平は秋田(安東)氏からの独立を果たすべく様々な画策をおこなった。
慶長三年(1598年)頼平が紛争評定中に急死すると、比内浅利氏は事実上滅亡した。