多功城 (たこうじょう)
所在地 栃木県河内郡上三川町多功1533 2014.4.17
多功城 (たこうじょう)
所在地 栃木県河内郡上三川町多功1533 2014.4.17
「上野国多功城趾」碑
本丸跡
北側の堀
北側の堀
多功城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道146号線沿いの「石橋ゴルフガーデン」(表記番地)[マップコード39 030 217*16]が城跡の一部で、本丸跡は東西南北約200mの方形の中に、土塁、北側に堀跡が残っているが、半分は宅地となっている。
曲輪は周辺の田より3~5mの高さにある。北側に堀跡がある。「下野国多功城趾」碑が野澤家に建てられている(地図)。
【歴史】 多功城は鎌倉時代後期にあたる宝治二年(1248年)に、宇都宮頼綱の四男多功宗朝によって築かれたとされる。小山、薬師寺から宇都宮に通じる要路にあり、多功氏と同じく宇都宮氏一門の横田氏の横田城と並び、宇都宮城の防衛に大きな役割を果たした。
戦国時代になると宇都宮城を防衛する拠点として大いに機能し、上杉氏や後北条氏の苛烈な侵攻を幾度も撃退した。
弘治三年(1557年)に上杉謙信の軍勢が宇都宮城を攻略するために多功城、上三川城を攻撃したが、多功城主の多功長朝の采配のもと、一門の児山城主・児山兼朝、簗城主簗朝光・吉朝父子、家臣の石崎通季、野澤保辰、高木道重、上野祐朝、援軍で駆け付けた祖母井吉胤、矢板長則などの2千余りの軍勢の活躍によって、先陣の佐野豊綱(佐野康綱の嫡男)などを討ち取り、撃退した。
元亀三年(1572年)一月には後北条氏が2千の軍勢で多功城に攻めたが、多功城主で多功長朝の子・房朝が迎え撃ち、撃退した。
さらに同年十二月に再び後北条氏が攻めてきたが、こちらも撃退に成功した。 天正十三年(1585年)十二月に後北条氏が三度び多功城に攻めてきた。多功城主で多功房朝の弟多功綱継による徹底抗戦により、またもや後北条氏は多功城を攻略できなかった。
また、宇都宮城も攻略できず、宇都宮城下町の民家や寺院などに火を放ち撤退した。
天正十七年(1589年)九月に、後北条氏が再び宇都宮城を攻略するために侵攻してきた。綱継は多功城に攻めてきた北条氏邦・後北条氏に寝返った宇都宮氏重臣・芳賀高継と戦い、これを撃退した。
このように多功城は、宇都宮氏にとって欠かせない城であったが、慶長二年 (1597年) に豊臣政権の内部争いに宇都宮氏が巻き込まれて改易され、多功城は廃城になった。