櫛引城 (くしびきじょう)
最寄地 青森県八戸市櫛引館神40-2 2014.8.13 2018.4.21
櫛引城 (くしびきじょう)
最寄地 青森県八戸市櫛引館神40-2 2014.8.13 2018.4.21
登城ルート
南側の空堀・腰郭
東側の空堀
主郭東側
主郭南側の腰郭
主郭
櫛引城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道134号線の表記番地より西に50mほど行った台地に櫛引城跡がある[マップコード346 487 789*25](地図)。
馬淵川右岸の台地に築かれ、2段の郭が残り、南は深い谷となっておりその延長に空堀がある。また、東側に幅30mほどの空堀が残っている。私有地と思われ標識などはない。
【歴史】 築城年間は不明。櫛引氏は初め根城南部氏に仕えていたが、三戸南部氏13代守行の頃には三戸城南部氏を主と仰いでいた。
永禄十年(1567年)、櫛引氏が八戸政栄の留守中にその所領を侵略し、近隣に放火したため、元亀二年(1571年)、八戸氏の軍勢によって櫛引城は攻撃を受けた。東政勝が櫛引氏を支援したものの、櫛引勢は降伏した。
天正十九年(1591年)に起きた九戸政実の乱に際し、当主櫛引河内守清長と弟左馬助清政は九戸政実方に加担した。
浅水城・苫米地城・根城・是川館の諸城館を攻撃したあとに九戸城に入城するが、羽柴秀吉の率いる奥州再仕置軍との戦いで、櫛引清長は戦死した。
櫛引清政は九戸政実と共に降伏し、三迫松尾村(栗原市)で斬首されて櫛引氏は滅亡した。櫛引城もまた根城南部氏の攻撃を受けて敗れ去った。
天正二十年(1592年)の「諸城破却書上」には、「櫛引 平城 破 代官 桜庭 将監」とあり破却された。