大浦城 (おおうらじょう) (賀田城・八幡城)
所在地 青森県弘前市五代早稲田478 2014.8.3
大浦城 (おおうらじょう) (賀田城・八幡城)
所在地 青森県弘前市五代早稲田478 2014.8.3
説明案内板
大浦城址碑・津軽中学校
津軽中学校裏・後長根川
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 市立津軽中学校(表記番地)グランド南の交差点に「大浦城址」石碑と説明看板が建てられている[マップコード71 095 639*14](地図)。
体育館の北に後長根川が流れている。内堀で囲まれ北に後長根川を利用した本丸、外堀で囲まれた二の丸、その外側の東に三の丸、西に塩硝蔵の在った西の丸、西郭、二の丸大手門南に南郭を配置されていた。
東西500m、南北250mほどであった。『青森県中津軽郡大浦村郷土史』(昭和九年中村良之進著)。
【歴史】 文亀二年(1502年)津軽氏の始祖・種里城主大浦光信によって築城され、その子盛信が津軽進出の拠点とした。
その後城主は政信・為則・婿養子の為信と続き、元亀二年(1571年)為信がこの地で津軽平定の旗を揚げ強敵石川城の郡代・南部高信を討ち、その日のうちに高信臣下の猛将和徳讃岐を一挙に討ち取り滅ぼした。
為信は数々の戦で勝利し、天正三年(1575年)には大光寺城、天正六年(1578年)浪岡城、天正十三年(1585年)には田舎舘城、次いで横内城を攻略し、大浦氏代々の悲願であった「津軽統一」の大業を成し遂げた。
文禄三年(1594年)為信が堀越城に移るまで、四代92年間にわたり大浦氏の居城であった。堀越城に移った後は、城番が置かれるのみとなった。
その後二代津軽藩主・信枚(のぶひら)が弘前城を築城するときに大浦城に在った建物を運んだことから廃城となった。『岩木町教育委員会説明板』