部垂城 (へたれじょう)
所在地 茨城県常陸大宮市北町116 2020.6.5
部垂城 (へたれじょう)
所在地 茨城県常陸大宮市北町116 2020.6.5
説明板
大宮小学校
佐竹義元の墓碑・城跡碑
稲荷神社・松吟寺古墳群
部垂城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 久慈川右岸の河岸段丘上に築かれていた。市立大宮小学校が字古城で、かっては御城と呼ばれ、東側が搦と呼ばれていた。
周辺を見て回ったが、遺構は消滅している。東側の松吟寺南に松吟寺古墳がある。
【案内】 市立大宮小学校(表記番地)の校門左に佐竹義元の墓碑、城跡碑、説明板が建てられている[マップコード47 755 752*10]。
南方1km余に宇留野城がある。
【歴史】 承久の乱(1221年)の後、水戸城主大掾(だいじょう)資幹の子孫・河崎頼幹により築城されたという。
その後、佐竹氏家臣・大塚豊前守が城主となったが、佐竹13代義俊と弟実定の同族内部抗争の中、岩瀬系小貫頼定が部垂城を攻略し居城とし、その後頼通、俊通と続いた。
享禄二年(1529年)佐竹氏の宿老となった俊通の時、佐竹16代義篤の弟で宇留野城主宇留野四郎義元により攻略され、義元は部垂氏を名乗った。
しかし、主家佐竹義篤と弟義元の新旧勢力争いの中で、天文三年(1534年)以降度々争いが起こり、天文九年(1540年)三月、部垂城は落ち、義元は自刃し、廃城となった。
以降、部垂氏家臣は部垂衆として小場(おば)家寄騎として、小場氏と行動を共にし、慶長七年(1602年)佐竹氏の国替えにより、秋田大館城下に移った。