小高城 (おだかじょう)
最寄地 茨城県行方市小高978 2016.2.11 2.21
小高城 (おだかじょう)
最寄地 茨城県行方市小高978 2016.2.11 2.21
登城ルート(赤は主郭/緑は2郭/紫は3郭/青は4郭)
南側道路にある 説明板
4郭・堀跡・3郭
2郭南空堀
2郭・土塁
主郭2郭間空堀
主郭土塁(東側)
小高城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道50号線より西に行った表記番地のすぐ西に説明板が建てられている。その左の道を少し登り、東に行った3郭の作業道に駐車スペースがある[マップコード162 402 757*07]。
作業道に沿って西より、奥に墓地のある4郭(地図)、空堀跡、広い3郭(地図)と並んでいる。すべて畑となっている。
東西に細長い3郭の北側の作業道を北東に行き下ると、深い空堀に囲まれた約100m四方の2郭(地図)があり、土塁が巡らされ、畑となっている。
2郭虎口を下って空堀を50mほど行くと、坂の先に物見台があり、小規模の土塁が残っている。
東に(右)空堀を歩いて行くと、坂の先に虎口があり、南北約100m東西約30mの細長い主郭がある。土塁が一周に亘って残り、土塁の内側は藪を刈られ一周出来る。中央部分は藪化している。
【歴史】 平安時代末、常陸大掾氏の一族・吉田忠幹(ただもと)が郡司として行方(なめかた)の地に入り居城を築き、行方平四郎を名乗った。
その子景幹(一説に宗幹)は源平の戦いにおいて源氏に与し、屋島の戦いで戦死した。
元暦元年(1184年)その所領は景幹の四人の子に分与され、それぞれの地名を苗字とする地頭として「行方四頭」と呼ばれた。
鎌倉時代初期、行方城主であった為幹は、小高の地に居城を移し、小高氏を名乗った。
その後裔は開発や社領侵略などにより、勢力を伸ばし小高、南、橋門、井貝から、南高岡、中根、繁昌、吉川まで支配したこともあった。
天正十九年(1591年)二月、幾多の戦乱を生き延び約4百年に亘りこの地を支配し、十数代を数えた小高氏も、佐竹氏の「南方三十三館の仕置」により、太田城で鹿島行方地方の諸城館主と共に滅ぼされた(謀殺)。
小高氏滅亡後、文禄四年(1595年)佐竹氏一門で 大山城主大山義則がが小高城将として配された。
慶長七年(1602年)大山義則が城将の時、佐竹氏の秋田移封により廃城となった。『麻生町教育委員会説明板』より。