守谷城 (もりやじょう)
最寄地 茨城県守谷市本町939 2015.4.7
守谷城 (もりやじょう)
最寄地 茨城県守谷市本町939 2015.4.7
西側低地
空堀
平台・説明板
平台土塁
東曲輪への橋・空堀
東曲輪
守谷城 平台跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【案内・感想】 小貝川西の比高約30mの丘陵にある。 県道46号線「法花坊」交差点より「つくばエクスプレス」高架下を南に約550m行った信号の次の交差点を左折し、100m程で駐車場[マップコード18 405 413*62](地図)があり、その横に説明板が建てられ、堀跡が一望できる。
西に約130m行くと登り口がある。左手に堀底道の空堀が良く残っている。その左の高台が「御馬家台」と呼ばれる曲輪がある。
右手に登れば間もなく虎口があり、東西約70m南北約150mの広く細長い「平台」と呼ばれる主郭があり、説明板が建てられ、土塁が西から北に土塁が良く残っている。
東に空堀を隔てて東曲輪(地図)・妙見曲輪がある。
大別すると、6ヶ所の主要郭と複数の腰郭、帯郭から構成され、主要郭間は堀と土塁によって区切られ、虎口、桝形虎口、橋跡、土橋の外櫓台が残されている。
【発掘調査】 「平台」の郭を平成七年の発掘調査した結果、倉庫と考えられる掘立柱建物が9棟発見された。主な出土遺物は、瀬戸、美濃産の茶碗・天目茶碗・皿・向付・擂鉢や常滑産の甕、伊万里や中国産の磁器片、鉄砲弾・小刀・古銭・煙管や土製の犬型ミニチュアなどの玩具などであった。守谷市の史跡に指定されている。
【歴史】 寿永二年(1183年)頃、御家人千葉常胤の次男師常が相馬氏を名乗った。鎌倉時代初期の相馬御厨は、相馬師常源頼朝より地頭に任じられた。
時代は下って、大永五年(1525年)十一月、「相守因幡守(相馬守谷因幡守)」と称する相馬一族の人物(相馬胤広)が守谷に居城を持っていることが、『足利高基書状』に記されている。
天文六年(1537年)正月、『関八州古戦録』にも、守谷を本拠としている相馬氏の存在が記されている。現守谷城の前身になった城館はこの頃築かれた。
天文七年(1538年)第一次国府台合戦の後、後北条氏の勢力が下総国に及ぶようになった。上杉謙信軍が二度にわたって関東に来攻し反後北条勢力の後ろ盾になっていた。
上杉謙信軍が退いた後、相馬氏は北条氏政・古河公方義氏と和睦し、後北条氏に従属する証しとして守谷城を義氏に明け渡す結果となった。永禄九年(1566年)八月義氏の母芳春院周興が入城した。、
永禄十一年(1568年)五月、守谷城の拡張、修築が行われ、北下総の要衝に相応しい規模の戦国城郭になった。
天正十八年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐で、後北条氏が滅び、守谷城には家康の家臣菅沼(土岐)定政が入城し、守谷領1万石の大名になった。
元和二年(1616年)菅沼定義は、摂津国高槻に転封となったが、元和五年(1619年)定義の子頼行が守谷城主に復帰した。
寛永五年(1628年)頼行が出羽国上山に移封されると、廃城となった。
寛永十九年(1642年)守谷領の一部は、佐倉藩主堀田加賀守正盛の所領となり、その子正俊へと引き継がれた。
寛文七年(1667年)から寛文九年までの守谷領の一部は、一時幕府領に編入され、代官として曽根五郎左衛門、雨宮勘兵衛の管理下に置かれた。
寛文九年(1669年)酒井忠拳(ただたか)が守谷の新領主になった。天和元年(1681年)酒井氏が厩橋(まやばし・群馬県前橋市)に転封となり、守谷領は関宿藩領に編入され、以後明治維新を迎えるまで続いた。『守谷市教育委員会説明板』より。