太田城 (おおたじょう)
所在地 茨城県結城郡八千代町太田1098 2018.2.17
太田城 (おおたじょう)
所在地 茨城県結城郡八千代町太田1098 2018.2.17
龍昌院
主郭西側空堀
主郭・土塁
主郭南東側土塁
民家の土塁1
民家の土塁2
愛宕神社東側土塁
太田城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 】
【感想】 龍昌院の東に隣接した民家が主郭で、龍昌院との間に土塁、空堀が意外とよく残っている。
東西に走る道路の南に民家の土塁が2ヶ所見られ、また愛宕神社に土塁が残っている。
【案内】 2郭に龍昌院(表記番地)が建てられ駐車場が利用できる[マップコード123 304 754*01]。
東隣りの民家が主郭で土塁、空堀が残っている。愛宕神社へ向かう道の南に土塁1(地図)、土塁2(地図)が残っている。
南東の愛宕神社は出郭と思われ、土塁が東辺に残っている。
アクリル板が貼られ写真写りは悪いが、神社由緒に「愛宕神社は応永年間の創建にして天正年間多賀谷左近太夫三経がこの地に城を築き城中鎮護の神として・・・」と記されている
【歴史】 天正十九年(1591年)和歌城主であった多賀谷重経の長子三経(みつつね)によって築かれ、本拠を移し太田多賀谷氏となった。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで下妻多賀谷氏は西軍につき佐竹氏の転封にともない出羽国久保田へ移った。
また、太田多賀谷氏は結城氏と共に東軍につき、結城秀康の越前転封にともない北ノ庄へ移った。
三経も秀康に従って越前国柿原(現福井県あわら市柿原)で3万2,000石を領するが、慶長十二年(1607年)、主君・秀康が病死すると、3ヶ月後、その後を追うかのように病死した。