多気城 (たきじょう/たけじょう) (多気山城・ 城山城)
最寄地 茨城県つくば市北条442 2015.2.21
多気城 (たきじょう/たけじょう) (多気山城・ 城山城)
最寄地 茨城県つくば市北条442 2015.2.21
登城ルート
登り口・二十三夜塔
東側の空堀
3郭・井戸跡
3郭南の空堀
2郭東の土橋・空堀・虎口
2郭
本丸・頂上削平地
多気城 本丸跡( 地図 )
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【案内・感想】 県道139号線の「つくタク」横町乗場があり、防火水槽の西に「二十三夜供養塔」石碑と「庚申」石碑の間に登り口[マップコード123 356 409*42](地図)がある。
堀底道を登ると、竹林があり、左の尾根に沿って篠竹の生えた道(はっきり判らない)を登って行くと、空堀の道に出る。しばらく登ると、広い3の郭(地図)があり、東端に井戸跡がある。南から東にかけて空堀がよく残っている。
北西隅より西へ登ると3つの小曲輪が並びその先に空堀・土橋・2の郭虎口がある。
その上はガードレールのある車道(観光用道路は休止中で頂上の削平地に至る)に強引に登って行くと、2郭である。頂上に使われていない駐車場跡があり東の比高80mの山頂に削平された本丸跡がある。
地理院地図の西の山に城跡のマークがあるが、最初登ったが自然地形であった(間違い)。
【歴史】 平安時代中期に常陸平氏の宗家である大掾氏(だいじょうし)の平維幹が常陸国筑波郡水守から多気の地に移り築いた城とする説があり、『吾妻鏡』に登場する「多気の山城」とは維幹が築いた多気城とされる。
現存する大規模な城郭遺構は戦国時代、特に永禄から慶長にかけてのものと考えられており、茨城城郭研究会は、平安時代の城跡に大改修を施したものであろう、としている。
維幹の子孫は代々多気氏を名乗ってこの地で勢力を持っていたが、建久四年(1193年)、六代の多気義幹の時、八田知家らの策略にはまり没落した(建久の変)。義幹は今も北条地区の住民から「たきたろさま」と呼ばれ、親しまれる。
発掘調査では、室町時代頃のものと思われる土師質土器が見つかっているが、多気義幹の死からこの時代までの多気城の様子は不明である。
現時点では戦国時代に純軍事目的で築城されたことが推察され、文献史料でも永禄二年(1559年)に結城氏が小田氏側の北条を攻め、元亀三年(1572年)に北条付近で造作が行われていること、天正七年(1579年)に「嶽山再興」の記録がある程度である。
これまでに出されてきた築城の理由には、以下のような説がある。
1.北条五郎顕家の館とされる小泉館の詰めの城だった
2.上杉謙信または佐竹義重が小田城を攻めるために築いた
3.佐竹義宣が関ヶ原の戦いの前後の緊迫した状況で築いた
戦国時代以降の出土遺物はわずかで、同時代の陶磁器は発掘されていない。このことや、火災の痕跡・鉄砲玉などの戦闘形跡も見られないことから、最終期にはあまり使用されなかったと推測されている。『ウイキペデイア』より。