久野城 (くのじょう) (延命寺山城)
最寄地 茨城県牛久市久野町2318 2014.1.8
久野城 (くのじょう) (延命寺山城)
最寄地 茨城県牛久市久野町2318 2014.1.8
入口
2郭・土塁・空堀
主郭東側土塁
3郭南空堀
南西側空堀
牛久大仏
久野城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 牛久浄苑の南の微高地にあり、牛久大仏の頭部が望める延命寺(牛久市久野町2499)に駐車できる。その約100m西にある表記番地の左に入口(地図)がある。
一見して解りにくいが、住宅の間の道を北に200mほど行き、杉林の中を左に約200行くと2郭(地図)の土塁が見えてくる。4郭東側の土塁等は埋没していると思われる。4郭の南が3郭である。
その土塁を越えてゆくと、北に土塁に囲まれた2郭があり、南に空堀で隔てて主郭がある。東に土塁が残り、その東に3郭の空堀がL字形に残る。
牛久浄苑に向かう道の、南西側にも空堀がある。
全体的に放置され杉林でうす暗く藪化し、説明板等も無い。野口一族の墓地は見つけられなかった。
【歴史】 戦国時代、江戸崎城を本拠とする土岐氏の支城として築かれたとされる。
久野の観音寺の棟札には、永禄二年(1559年)には野口備前守の支配であり、天正五年(1577年)の棟札には、当郷領主土岐越前守と名前があり、この時点では、土岐氏の支配下にあった。
久野城主の土岐越前守ト千(ぼくぜん)は、久野城を中心に下小池城などの支城と連携して西側を防備していたものと思われる。土岐氏の進出後、野口氏はその下で働き、土着し現在に至ったと考えられる。久野城の郭内には野口一族の墓地がある。『ウィキぺディアより・牛久市史 原始中世古代編』