深沢城 (ふかざわじょう) (神梅城・阿久沢城)
最寄地 群馬県桐生市黒保根町宿廻564 2015.8.30
深沢城 (ふかざわじょう) (神梅城・阿久沢城)
最寄地 群馬県桐生市黒保根町宿廻564 2015.8.30
登城ルート
阿久沢氏累代の墓
正圓寺東側の空堀
二の丸(左)・空堀・本丸(右)
空堀・本丸
本丸石碑
深沢城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 正圓寺(表記番地)の駐車場南に東西約45m南北約50mの本丸跡が残っている。駐車場より南東に下るとすぐ、説明版が建てられ、南の「城多目的研修集会施設」の建つ一帯が二の丸である。
本丸との間には深く広い空堀が残り、駐車場との間にも空堀が残っている。枝垂れ桜の本丸虎口に「本丸」の石碑が建てられ、北西の土塁付近に八幡宮.山王宮(右)の祠が祀られている。
本丸は草が茂り、土塁が残っているが、撮影できなかった。本丸の南と西は急崖となっている。また正圓寺東に空堀が見られる。
墓地の中央付近に阿久沢氏累代(16代)の墓がある(駒形の宗無居士が七代能登守直崇の墓)。
【歴史】 康平五年(1062年)源家より深沢郷を与えられた豪族阿久沢氏が建武年間(1334~38年)築城したとされている。城域は200m×200mの規模である。
戦国時代には越後の上杉謙信に従い、永禄四年(1561年)の関東幕注文にも桐生衆の中に阿久沢対馬守の名が見える。
阿久沢左馬助の代には小田原北条氏方に属し、永禄十二年(1569年)には越相同盟交渉の際の北条方の施設送迎役を担っている。
又、北条氏の拠点として五覧田城を築城、この頃には利根郡まで版図を広げたと見られるが、天正二年(1574年)上杉謙信の関東侵攻により五覧田城と深沢城は共に上杉勢により落城させられた。
天正七年(1579年)には由良国繁に属したものの、天正十二年に由良家が北条方を離脱した事で、阿久沢氏は北条方に転じた。
同年、北条家の命を受けた阿久沢左馬助(彦次郎)は由良方となった五覧田城を攻め落とし、弟の彦三郎と共に深沢城の奪還に成功した。
その後、五覧田城は武田方の真田家が攻略したものの、天正十四年(1586年)には阿久沢左馬助が、真田家の家臣で城代・久屋三河守を討ち取り奪還に成功、その勢力を沼田地方にまで拡げた。
天正十八年(1590年)の小田原の役では北条氏に従い、家臣40名程を引き連れ小田原城に籠城したが、北条氏が豊臣秀吉に降伏し開城に応じた為、領地は豊臣方に取り上げられ、深沢城も廃城となり阿久沢能登守直崇は神梅の地に帰農し、一部は現在の前橋市宮城に移り住んだ。 『群馬県ホームページより』