国峰城 (くにみねじょう)
最寄地 群馬県甘楽郡甘楽町秋畑486-2 2015.9.23
国峰城 (くにみねじょう)
最寄地 群馬県甘楽郡甘楽町秋畑486-2 2015.9.23
登城ルート
南東側登り口
南東側堀切
本丸跡
西側の郭
西側堀切
西側3番目の堀切
出丸跡
出丸西側の堀切
国峰城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高130m】
【案内・感想】 県道46号線より右折し北西に約1.4km行った「第十四区住民センター」(表記番地)に駐車できる[マップコード247 467 045*31]。
西側よりコンクリートの細い道(車通行不可)があり、東に800mほど行ったところに登り口(地図)があり、案内標識が建てられている。
木道が整備され、「城山大権現」の朱鳥居をくぐって、本丸東20m下に二の丸跡があり、二段の腰郭がある。西の堀切を越えた標高434m比高約130mの城山頂上に本丸跡がある。
本丸跡は20m四方ほどの広さで東に3社があり西に本丸碑、説明板が建てられている。
本丸跡の西側に郭があり、堀切を3条越えて行くと、出丸跡(地図)がある。西側にも深い堀切がある。
昭和四十七年(1972年)9月6日、甘楽町の史跡に指定された。
【歴史】 小幡氏は武蔵七党の児玉党の一員で、西上州の首領としてその勢力を伸ばし、関東管領山内上杉氏の重臣として活躍した。
天文二十一年(1552年)北条氏康に攻められた山内上杉憲政の亡命後、武田信玄に通じ、箕輪城主長野業政(なりまさ)は小幡重定を追放し、一族の小幡景定を城主とした。
永禄四年(1561年)信玄は、国峰城を奪って信実(重定改)を復帰させ、上州攻略の拠点とした。以後信実は赤備え騎馬軍団を率い、武田軍団の中核となって活躍した。
信玄の病後、信実は信真と改め、天正三年(1575年)長篠の戦いには、設楽原の決戦に中央隊として奮戦した。
天正十年(1582年)武田氏滅亡後、織田方の滝川一益(かずます)配下となり、信真は信貞と改め、更に北条氏に属して信定と改めた。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、信定は出陣し小田原城に籠城した。留守の国峰城は、子の小幡信秀が守ったが、前田利家率いる北陸道軍分遣隊の藤田信吉に攻め落とされ、廃城となった。