湊城 (みなとじょう)
所在地 秋田県秋田市土崎港中央3丁目9 2014.8.2
湊城 (みなとじょう)
所在地 秋田県秋田市土崎港中央3丁目9 2014.8.2
土崎神明社
土崎街区公園・説明板
説明板
湊安東氏顕彰碑
湊城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 土崎神明社(表記番地)及びその東の土崎街区公園が湊城跡であり、公園に「湊安東氏顕彰碑」が建てられ、入口に説明看板がある[マップコード88 323 539*11]。
僅かに崩れた土塁が残っている。湊城の築城時期についての詳細は不明である。後代の書物になるが、明治期の『秋田沿革史体制』には、永享八年(1436年)に安東(安倍)康季が将軍野(土崎の東に広がる平原、現在は住宅地)の西北に築いたとある。
元々は現在の寺内後城(秋田城の西方、旧雄物川に面した小高い丘)にあったという説もあるが、少なくとも、慶長九年(1604年)に佐竹義宣によって破却されたときは現在の土崎神明社の地にあったことは間違いないとされ、実際に発掘調査によって織豊政権時代に出来たと見られる城の遺構が発掘されている。
【歴史】 土崎港の地は、応永二年(1395年)に十三湊の下国安藤氏の一族である安藤盛季の弟鹿季(かのすえ)が、当時この辺りを支配して上国安東氏にかわって入部し拠点としたとされるが、当時の居城は不明である。鹿季はこの後湊氏と称し、秋田城介を名乗った。
また、以後湊安藤氏(この頃から安東氏とも)の累代が支配する一方で、下国安藤氏は盛季が南部氏に敗れて蝦夷地に逃れ、後に盛季の後継者政季が湊安東氏に招かれて檜山(秋田県能代市)に土着した(政季の子忠季以降は檜山安東氏と呼ばれる)。
その後、湊安東氏は安東堯季(たかすえ)が後継者を定めないまま亡くなり、宗家であり尭季の娘婿でもある檜山安東氏の当主愛季が、両家の統合を図るため弟の茂季を送り込んだ。
しかし、それに反発した湊安東家配下の国人の一部が反乱を起こした。この反乱は愛季が鎮圧し、湊城に入ることによって両家を統合したが、このときはまだ安東氏の拠点は檜山城であった。
天正十五年(1587年)愛季が亡くなり、子の実季が家督を継ぐと、天正十七年(1589年)安東愛季の弟・茂季の子通季が反乱を起こした。実季はこれに勝利し、秋田郡の支配権を確固たるものにした(湊合戦)。
この後、実季は拠点を檜山城から湊城に移し、慶長四年(1599年)から湊城を二重の水堀を巡らした平城に改築を行った 。
慶長六年(1601年)に完成したが、実季はその翌年慶長七年(1602年)に常陸国宍戸城に転封となり、代わって秋田転封となった佐竹義宣が入城した。
しかし、安東氏の領地は5万石程度であったが佐竹氏はその約十倍、54万石の大名であったため、家臣団の屋敷を構えるとなると湊城は狭く、また拡張の余地もなかったため、義宣は慶長九年(1604年)に久保田神明山の地に新たに久保田城を建設して移り、湊城は破却された。
元和六年(1620年)には跡地に土崎神明社が建てられた。湊城は平城であったため、取り壊し後の土地はその多くが町人の屋敷となり、江戸時代における土崎湊町の隆盛の基盤となった。