浦城 (うらじょう)
最寄地 秋田県南秋田郡五城目町浦横町舘ノ下147 2015.7.6
浦城 (うらじょう)
最寄地 秋田県南秋田郡五城目町浦横町舘ノ下147 2015.7.6
登城ルート(赤は本丸/緑は西の郭)
神社鳥居・説明板
説明板
東の郭
本丸東側切岸
本丸跡石碑
武者溜り
畝郭
西の郭・奥に畝郭
浦城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高30m】
【案内・感想】 県道220号線が秋田自動車道を潜った東より北に行った所に神社(表記番地)鳥居があり、「浦城跡」の説明板、登り口がある[マップコード456 762 692*72](地図)。
鳥居より登ると拝殿がありその石段の右に行くと腰郭下の斜面となり、道はよく見ると見える程度で、直登する感じで登って行くと、比高30m程の腰郭東周辺に出る。帰路の杉木立の形を覚えておくとよい。
木の階段を登ると、土塁が残る郭があり、下って鞍部の郭に出る。その西に本丸があり・周囲に腰郭があり、木の階段が設けられている。
本丸には柵が設けられ、「浦城本丸跡」の石碑が建てられ、井戸跡と思われる大きな窪地がある。
西に下ると「武者溜り」と呼ばれる二の丸がある。二の丸を下って登ると鐘突堂があり、櫓に鐘が下げられている。
南に下ると盛永が自害した場所といわれる「きのみや様」の石祠が祀られている。急斜面の西に細長い郭があり、西端に畝郭があり竪堀が残る。
高岳山の東尾根に築かれた、東西150m南北40mほどの連郭式の山城で保存状態は良好であるが、登り道の整備が待たれる。
【歴史】 築城時期は不詳であるが、天文(1532~55年)の頃は千葉氏が城主であった。
永禄年間(1558~70年)三浦氏が城主で、安東氏に帰属していた。天正十五年(1587年)安東愛季(ちかすえ)が亡くなり、子の実季が家督を継ぐと、天正十七年(1589年)安東愛季の弟・茂季の子通季(道季)が反乱を起こした湊合戦で、城主三浦兵庫頭盛永は安東道季に味方した。
道季方が劣勢になると安東実季は石岡主膳に浦城を攻めさせ、浦城は落城し、三浦盛永は壮絶な死を遂げた。また、三浦氏近隣の山田喜六、馬場目勝時なども安東実季に攻められ敗れた。
実季は湊合戦に勝利し、安東家を統一、因縁の浦城や山内城、馬場目城を破却した。その後、岡本城という城下町を配した平城を築城し、八郎潟一帯を治めた。また、砂沢城に藤原内記秀盛を置いて一帯を治めさせた。