大湯城 (おおゆじょう) (大湯館)
最寄地 秋田県鹿角市十和田大湯大湯189-1 2017.4.25
大湯城 (おおゆじょう) (大湯館)
最寄地 秋田県鹿角市十和田大湯大湯189-1 2017.4.25
登城ルート(赤は本丸/青は新城/緑は向新城/水色は清姫神社)
大手口
大手門跡
本丸・標柱
桂井戸
キャダテ(貝館)・新城入口
新城(二の丸)
新城南の空堀
向新城
大湯城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高40m】
【感想】 大湯集落の南の丘陵にある大規模な城で、7つの独立した郭から成り、自然の谷や空堀を巧みに組み合わせ、防御性を高めている。
新城西の道路横に駐車スペースがあり、案内板が建てられている[マップコード297 745 271*84]。
【案内】 神明社(表記番地)東に入口があり、案内図が掲示されている。神明社の背後(南側)より大手道が南に伸びており、途中で搦手と分かれる。大手門跡を登ると本丸があり標柱が建てられ、東端に館神が祀られている。
南に谷を挟んで貝館(見張り台)、新城がある(地図)。新城は広く北側に新城稲荷神社跡の灯籠が建っている。
新城の南に空堀、郭、空堀、清姫神社と並んでいる。また大手道を挟んで、貝館西に柳館、その西に向新城(地図)がある。
【歴史】 大湯昌光は、南部信直に仕え、大湯村及び近村2000石を領知し、大湯城に居住し、南部支族の毛馬内氏と縁戚を重ねていた。
天正十九年(1591年)の九戸政実の乱では、兄弟相対峙する状況となり、兄の彦六(五兵衛)昌忠は信直麾下の包囲軍の中に、次子四郎左衛門昌次が嫡子四郎左衛門、二男治郎左衛門、三男彦左衛門を伴い、同郷の大里修理大夫親治と共に九戸方の重鎮として荷担したが、 大湯城は三戸(南部)方の大光寺正親勢の包囲攻撃を受けて落城した。
明暦三年(1657年)以降、赤尾又兵衛により再築された。
寛文五年(1665年)南部藩の重臣で軽米城主北氏の封地となり、その支配下に北氏家臣団と御預り御同心隊による藩境警備の根拠地であった。
新城は南部北家より汲川家に下賜されて、汲川家(大湯城の城代家老職)が代々居住した。