桧原城 (ひばらじょう) (小谷山城)
最寄地 福島県耶麻郡北塩原村桧原早稲沢610−56 2014.4.16 2018.5.26
桧原城 (ひばらじょう) (小谷山城)
最寄地 福島県耶麻郡北塩原村桧原早稲沢610−56 2014.4.16 2018.5.26
登城ルート
南東の金山入口
南側堀切
南の郭
堀切(南の郭から北の郭を見た所)
北の郭・土塁
北の郭北側堀切
桧原城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高130m】
【感想】 桧原湖北岸の標高964mの山頂に築かれた連郭式の山城である。2つの主要郭と、それを隔てる堀切がよく残り、南側尾根に草木に覆われた階段状の郭が連なっている。南端に堀切、竪堀が残っている。
【案内】 県道2号線と県道64号線の交差点にあるガソリンスタンド(表記番地)より、県道64号線を約600m北に行くと駐車スペースがあり「小谷山城升型入口」と地図案内板が建てられている[マップコード413 832 130*68](早稲沢入口)。
また、西約100mの道路擁壁に階段が設けられ説明板が建てられている[マップコード413 831 234*18](金山入口)。どちらからも約700mの距離で、比高約130mの山頂に至る。
北側に虎口を備えた郭があり、空堀の南側に南北50mほどの広さの郭がある。南側の尾根に、草木で鬱蒼とした段郭があり、南側に大きな堀切とそれに続く竪堀がある。
【歴史】 穴沢氏という土豪が支配する地域で、築城当時桧原湖はなかった(1888年7月磐梯山の大爆発で堰き止められ生じた)。
穴沢氏は会津領主の蘆名氏に従っており、そのため、桧原地域は伊達氏領と境を接する地域でもあった。
永禄年間(1558~70年)に伊達輝宗は二度もこの地域を攻めているが、穴沢俊恒・俊光によって撃退された。
天正十二年(1584年11月)、伊達氏家督を継いだばかりの政宗は桧原峠(米沢市と北塩原村の境)より会津領へ侵入した。穴沢氏は一族の裏切りもあって一族郎党悉く伊達勢に討たれ、桧原は伊達氏領になった。その後、天正十三年(1585年)政宗が築城したのが桧原城であった。
政宗の家臣・後藤孫兵衛信康が城番を命じられ、天正十七年(1589年)、摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡するまで城番に当った。城は蘆名氏滅亡によってその役割を終え、廃城になったと思われる。