成田城 (なりたじょう) (大久保城)
最寄地 栃木県矢板市沢1305 2016.3.8
成田城 (なりたじょう) (大久保城)
最寄地 栃木県矢板市沢1305 2016.3.8
登城ルート
東側神社入口
五輪塔(左)・八幡大権現
南側平坦地
空堀状の溝
成田城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 表記番地の南に駐車し[マップコード121 221 190*87]、南に畦道を50mほど歩くと、八幡大権現を祀る大久保古墳(石垣は後世のもの)がある。北側より鳥居を通って、石垣の上に五輪塔、「八幡大権現」の由来石碑がある。
祠と五輪塔は元禄四年(1691年)四月吉日に大安寺12世住職により、沢村城攻防戦の戦死者の鎮魂のために築かれた。
東西の100mの半円形の台地はいくつかの畑となっている。南側の山に連なる部分には空堀跡と思える浅い窪みが帯状に残っている。北方に沢村城の小高い山が指呼の内に望める。
【歴史】 成田城は、塩谷郡の国人領主である塩谷氏が、那須氏の城であった沢村城を監視し、攻略するために沢村城の南側約800mに築いた陣城で、那須領と接している成田の地を守る役割も果たしていた。
城は、成田に通じる峠道の入口に築かれている。築城の具体的年代は不明だが、正和三年(1314年)四月二十日に塩谷氏が、那須氏の沢村城を攻めて落城させた記録があるので、この頃には築かれていたものと考えられている。
当地には、八幡大権現石碑文によれば、塩谷領成田の阿弥陀坂から沢村の大久保の地に出る道のこの地が、沢村城がよく見える高台になっていて、局地的な独立地形になっているため、防衛の第一線の拠点となり、何度となく戦が繰り返されたという。
塩谷氏の歴代の沢村城代の記録が残されているが、沢村城が那須方の手にあった時は、これらの城代が成田城の城主を務めていたと考えられている。
廃城時期は不明だが、塩谷氏が改易された文禄四年(1595年)二月八日までには、廃城になっていたものと考えられている。『ウィキぺディア』成田城より。