富田城 (とみだじょう)
所在地 栃木県栃木市大平町富田1869 2018.1.13
富田城 (とみだじょう)
所在地 栃木県栃木市大平町富田1869 2018.1.13
大平西小学校
城跡碑・説明板
説明板
北側土塁
土塁上面
富田城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 「市立大平西小学校」一帯が城跡で遺構は少ないが、北側道路を挟んで高さ約5m長さ約88mの土塁が残っている。
東西約400m南北約500mの大規模な複郭式の平城であったという。
【案内】 JR両毛線「大平下駅」より県道11号線を南西に約200m行き右折して行った「市立大平西小学校」(表記番地)北東側に城址碑、説明板が建てられている[マップコード64 623 655*33]。
その北西側道路横に土塁が残されている。
【歴史】 嘉吉元年(1441年)に佐野氏の一族富田左衛門尉成忠により築かれたといわれる。その後、駿河守忠宗が継いだ。文明二年(1470年)富田玄蕃頭秀利が城主となり、そのあと、左近信吉と続いた。
弘治三年(1557年)、富田信吉の時佐野氏と結んだため、富田城は皆川俊宗に攻められて落城した。それ以後、皆川城の支城となった。
天正十八年(1590年)豊富秀吉の小田原攻めに伴い、皆川広照は、北条氏に与して小田原城に籠城したため、皆川城は包囲され落城した。 皆川城落城後、天正十九年(1591年)から慶長二年(1597年)まで富田秀重が城主であった。
4年後の慶長六年(1601年)より元和三年(1617年)まで下総国岩富城より北条出羽守氏重が1万石で富田に移り、富田城跡に陣屋を構えた。
元和五年(1619年)氏重は遠江国久野へ転封となり廃城となった。