大田原城 (おおたわらじょう) (龍城・龍体城・前室城)
所在地 栃木県大田原市城山2 2014.4.11 2015.2.1
大田原城 (おおたわらじょう) (龍城・龍体城・前室城)
所在地 栃木県大田原市城山2 2014.4.11 2015.2.1
三日月堀
登城路
二の丸跡
本丸虎口・土橋・土塁
本丸跡・土塁
北郭跡
光真寺大門
大田原城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 蛇尾川(さびかわ)西の丘陵にあり、現在は「龍城公園」(城山公園とも)として開放され、本丸には高さ3mほどの土塁が巡らされている。土塁上に桜や躑躅が植えられ、花見の名所となっており、当日はさくらが満開であった。
城郭配置は北から北郭、土塁で囲まれた本丸、空堀・土橋を経て二の丸、南西の一段低い三の丸とし、大手は西の奥州街道に面している。二の丸の西に三日月堀と坂下門跡の土塁が残る。
江戸時代中期の大田原城城門は大田原氏の菩提寺の光真寺(大田原市山の手2‐11)(地図)の門として移設されていたが、現在の光真寺大門は文政八年(1825年)に焼失したものを再建したものである。両側に黒門と赤門がある。
大田原城の北1.5㎞の大田原市町島字水口の水田地帯には大田原城築城以前の大田原氏の館である水口(みなぐち)館跡がある。
また、同市佐久山には那須資隆の次男・那須泰隆(やすたか)が文治三年(1187年)に築いた佐久山城跡がある(現在は御殿山公園)。
いずれも昭和三十六年(1961年)に佐久山城跡と共に大田原市の史跡に指定されている。
【歴史】 天文十二年(1543年)に大田原資清によって下野国大田原の蛇尾川西岸、比高約25mの龍体山に築かれた平山城である。
関ヶ原の戦い時の戦功による5千石加増により大田原藩が立藩され、明治維新まで代々大田原氏がこの城を拠点としてこの地を治めた。
戊辰戦争の際、大田原藩は新政府軍に付き、本城は会津攻めの重要拠点視され、慶応四年(1868年)五月、旧幕府軍による攻撃を受けて三の丸が炎上した。明治六年(1873年)、廃城令により廃城となった。