名生城 (みょうじょう)
所在地 宮城県大崎市古川大崎名生舘33 2017.10.25
名生城 (みょうじょう)
所在地 宮城県大崎市古川大崎名生舘33 2017.10.25
説明案内板
土塁
土塁・空堀跡
本丸跡
浄泉院南の 空堀
北館・浄泉院
名生城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 城跡は「名生館官衙遺跡」とほぼ一致し、広大な規模であり、土塁や空堀の残欠が点在しており、民家敷地や畑となっている。
【案内】 名生舘公会堂(表記番地)の西、浄泉院への入口に説明案内板が建てられている[マップコード141 362 802*02]。
その南向いの民家に土塁が残り、北側に土塁・空堀跡が見える。本丸は「名生館官衙遺跡」案内板のある一帯で、畑となっている。
浄泉院へ向かう道路の右側に空堀の残欠が点在している。鉄塔後方にも空堀がある。
浄泉院(大崎市古川大崎名生北舘140・地図)が北館となっており、空堀に橋が架けられている。
【歴史】 河内源氏の流れを汲む足利一門で、南北朝時代に奥州管領(後に奥州探題)として、奥州に下向した斯波家兼を始祖とする斯波氏の一族でのち大崎氏を称した。大崎氏の本拠地として、広大な段丘に築かれた。
戦国時代に入るとその勢威は大きく失墜し、葛西氏などとの抗争もあって次第に衰退していった。そして11代当主・大崎義直のときには家臣の古川氏などが反旗を翻した。
天正十六年(1588年)に12代大崎義隆と伊達政宗との間で行われた大崎合戦では義隆は勝利したが、天正十七年(1589年)に摺上原の戦いで蘆名氏が滅び、政宗が名実共に奥州の覇者となると、政宗の圧迫を受けて、伊達氏に臣従した。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐不参の奥州仕置きにより、改易された。
再興を願う大崎氏遺臣による葛西大崎一揆が起こっており、家名再興は遂に果たされることなく大崎氏は滅亡した。