保呂羽城 (ほろわじょう) (登米城・保呂羽館)
最寄地 宮城県登米市登米町寺池道場90−1 2019.11.9
保呂羽城 (ほろわじょう) (登米城・保呂羽館)
最寄地 宮城県登米市登米町寺池道場90−1 2019.11.9
登城ルート(緑線は車道)
標柱
二の丸西の空堀
二の丸
本丸
本丸北側の慰霊塔
南側右の高台
南高台の碑文・城址碑
保呂羽城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高10m】
【感想】 登米市登米町寺池の北上川右岸の標高約102mの丘陵に築かれ、本丸は90m四方ほどで、北側は竹林となっている。2m程の切岸が見られる。
主郭の西側に「登米家一族之慰霊塔」が建てられ、その西に空堀が残っている。
【案内】 「保呂羽浄水場」(表記番地)より南に行った左側に標柱が建てられている[マップコード105 798 827*60](地図)。
その少し北から南東に歩道を歩くと2の丸に着き、その北に果樹園や竹林となった本丸がある。
本丸の廃屋の左側の竹林を入ってゆくと、後裔の大苗代伸成氏により建てられた「登米家一族之慰霊塔」(昭和55年3月)があり、横に歌碑「春浅き保呂羽乃城の址ところ鳴く鶯のこゑ澄みにけり」がある。
また、南へ300m程行った右側の台地に「保呂羽城址」の碑と碑文が建てられている(地図) 。
【歴史】 築城時期は定かでないが「前九年の役」後に初代登米氏が来往し、築城したと推定される。
永承六年(1051年)初代陸奥守頼実は鎮守府将軍源頼義に随行し、奥州に下向した。
文治五年(1189年)源頼朝が奥州藤原氏を討伐した折り、近江守正房の代に同姓藤原による誤解を受け、登米姓を賜った。
承久三年(1221年)備前守義国の代に鷹ノ巣館廃絶、保呂羽本城へ移った。
永正八年(1511年)越前守行賢の代に、葛西、山内首藤両氏の間に確執があり、山内首藤氏滅亡後の争乱の中にあり、行賢は登米家を中興した。
天正十八年(1590年)大膳頼房の代、豊臣秀吉により大軍で葛西大崎両氏の征伐が行われた。頼房の嫡男頼忠は葛西方として一族一門を率いて抗戦したが、頼房父子並びに葛西大崎の一族郎党ことごとく討たれた。『保呂羽城址碑文』より。