大館 (おおだて) (松前大館・徳山館) (国の史跡)(道南十二館)
最寄地 北海道松前郡松前町神明30 2014.8.5 2017.7.10
大館 (おおだて) (松前大館・徳山館) (国の史跡)(道南十二館)
最寄地 北海道松前郡松前町神明30 2014.8.5 2017.7.10
登城ルート(緑丸は小館)
徳山大神宮
ブローウニン幽閉地碑・左奥登り口
登った小館北の堀切
小館跡
大館跡南側の畑
大館跡北側の仕切り土塁
北西の空堀
大館跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 大館跡は松前町字神明から字福山にかけての勝軍山に続く標高45m比高約35mの舌状台地上にある天然の要害である。
大館の虎口左に堀切があり、畑地を過ぎて北に広い杉林と隈笹の郭があり南北に仕切りの土塁が残っている。
最北端は切岸となり谷に落ち込み、左手(北西)に進むと空堀が残っている。
【案内】 松前町郷土資料館(表記番地)の南に徳山大神宮がある[マップコード862 058 742*04]。その石段の山側にブローウニン幽閉地の石碑がある。その左手の沢を渡った所(橋は無い)が登り口となっている(地図)(民家の建物間より断って入る)。
登ってゆくと堀切があり、南に小館があり草が茂っている。北(右)に尾根西側の道を150mほど行くと視野が開け、大館跡の南に出る。現在は杉林や一部畑となっている。
北端は切岸となり谷に落ち込んでおり、北西側から西に空堀が残っている。
昭和五十二年(1977年)4月5日、国の史跡に指定された。
【歴史】 道南十二館の一つで蝦夷管領安東氏が同族の下国定季を館主として配置した。
康正二年(1456年)に志苔館付近でアイヌの蜂起があり、翌、長禄元年(1457年)にかけて起きたコシャマインの戦いで、十二館の内茂別館、花沢館の2館が持ちこたえ残った。
花沢(上ノ国)館主蠣崎季繁の客将・武田信広(後の松前家1世)がコシャマイン父子を倒した。
その後大舘は、下国定季の子・恒季が館主となったが、粗暴な行状が多く、明応五年(1496年)同族によって自害させられ、相原季胤が大館館主に充てられた。
永正十年(1513年)アイヌとの戦い(大館合戦)で敗れ相原氏は滅んだ。翌永正十一年(1514年)花沢館主二世光広は、上ノ国から小舟180余隻で松前大館に移り、館名を徳山館と改め、後に安東氏の代官となった。
その後アイヌ人との戦いがしばらく続いた。永正十二年(1515年)アイヌ人が蜂起して徳山館を攻めたが、光広は和睦を偽り、族長シヨヤコウジを殺害した。
享禄二年(1529年)瀬田内の族長タナサカシらが上ノ国に侵攻したが、五世義広は和睦を偽り、これを殺害した。
天文五年(1536年)タナサカシの娘婿タリコナが再び上ノ国に侵攻したが、義広は和睦を偽り、これを殺害した。
天文二十年(1551年)「夷狄(いてき)商船往還之法度」を定めアイヌと和睦し東西蝦夷は平静となり蝦夷地の内の和人地を掌握した。
蠣崎氏(後の松前氏)2世光広、3世義広、4世季広、5世慶広と4代にわたり大館を拠点とした。
天正十八年(1590年)5世慶広は京都聚楽第にて豊臣秀吉に謁見し、文禄二年(1593年)肥前名護屋城にて謁見し、志摩守に任じられ朱印状を賜った。
慶長九年(1604年)慶広は徳川家康より黒印状を賜った。
大館は慶長十一年(1606年)福山館に移転するまで蝦夷地経営の拠点として重要な役割を果たした。