鳥羽山城 (とばやまじょう)
最寄地 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣2118−4 2014.7.2
鳥羽山城 (とばやまじょう)
最寄地 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣2118−4 2014.7.2
登城ルート(緑線は車道)
大手門・石垣
本丸跡・休憩展望所
石垣・本丸通用門
枯山水庭園跡
笹曲輪
鳥羽山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道152号線トンネルの北より東に入った「JA遠中セレモニア天竜」(表記番地)の西より天竜浜名湖線踏切を越えて登ってゆくと「鳥羽山公園」駐車場に至る[マップコード26 682 421*30]。
またはトンネル手前を右折し「川口公会堂」西より登っても行ける。国道152号線(秋葉街道)のトンネル上より少し北西に位置する。
麓より比高60mの本丸跡は周囲を土塁・石垣で囲われ、南東に大手門、北西に搦め手門、東に本丸通用門が開いている。石垣は良く残り、西に庭園遺構、建物跡があり、一段下がって笹曲輪、腰曲輪、腰巻石垣がある。
【歴史】 永禄三年(1560年)五月、桶狭間の戦いで今川義元が討死し、これを契機に今川氏によって築かれたと考えられる。
永禄十一年(1568年)今川氏が滅亡すると徳川家康の領有となった。元亀三年(1572年)武田信玄により攻略され、武田方と激しい攻防戦が続いた。
天正三年(1575年)徳川家康による武田方の二俣城を攻める際に鳥羽山城に本陣が置かれた。
天正十八年(1590年)までは二俣城と鳥羽山城は徳川方が領有したが、家康の関東移封に伴い豊臣氏の大名・堀尾氏が遠江に入り、浜松城主・堀尾吉晴の弟・宗光が二俣城に入った。
この頃二俣城と鳥羽山城は石垣が築かれ、鳥羽山城は迎賓機能を備えた領主の生活の場となったと考えられる。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの後、戦略拠点としての重要性が薄れ廃城となった。
【発掘調査】 廃城後荒廃するまま放置されていたが、地元の郷土史研究家である鈴木喜代治が一定規模の城郭があったものと考え、昭和二十六年(1951年)から20数年にわたって単独で発掘を行った結果、大規模な遺構の存在が明らかになった。
昭和四十九年(1974年)から翌年にかけて、天竜市教育委員会による大規模な発掘調査が行われた。
これにより、二俣城と同規模、またはそれ以上の城郭があったことが判明し、各曲輪・枡形門跡・庭園・石垣・井戸・排水溝などの遺構が発掘された。特に庭園については、立石などから安土桃山時代の形式で枯山水の庭園であると考えられる。また、染付・天目茶碗・鉄釉仏飯器なども発見されている。これらのことから、家康の二俣城攻略の後には、鳥羽山城は二俣城の一部として機能したと考えられている。