形原城 (かたはらじょう) (稲生城)
所在地 愛知県蒲郡市形原町東古城3−2 2014.12.8
形原城 (かたはらじょう) (稲生城)
所在地 愛知県蒲郡市形原町東古城3−2 2014.12.8
古城稲荷参道・鳥居
城址碑・説明板
本丸・稲荷社
お妙塚
形原城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道321号線「形原港町」交差点より南に約150m行くと、「古城稲荷社」参道がある[マップコード51 127 437*23]。その前が少し広く路駐した。
直東に約100m行くと「古城稲荷社」の鳥居があり、その先に二曲輪があり「お妙塚」が祀られている。
上段に主郭があり、稲荷社が祀られ、横に「形原城址」の石碑、由来説明板が建てられている。南に三河湾、渥美半島を望むことが出来る。付近に稲荷社のある東古城、北古城、南古城などの地名が残り、その城域は広範囲である。
昭和四十六年(1971年)10月21日、蒲郡市の史跡に指定された。
【歴史】 平安時代の終り頃、源義光の孫方原二郎師光が築城したと伝えられる。
その後、長享年間(1487~89年)、松平氏第3代信光の四男である与副(ともすけ)が築城したと伝えられる。
与副の子孫は代々この地に拠って750貫ほどを領し形原松平家となるが、十六世紀中頃には松平氏の宗家筋である安祥松平氏とは距離を置き、東から勢力を伸ばした今川氏に服属した。
その後、永禄三年(1560年)五月、今川義元が桶狭間の戦いで敗死し、岡崎で松平宗家の元康(後に家康)が今川氏から独立すると、西三河のみならず東三河でも多くの豪族が今川氏から松平宗家に寝返った。
時の形原城主家広もまた松平宗家へと鞍替えを行うが、これに怒った今川氏当主・今川氏真によって人質であった妻子をみせしめに形原城から見下ろせる稲生の浜で串刺しにして処刑されたという。
天正九年(1581年)北条方の間者に13才の又七郎(後の六代家信)が暗殺されようとしたとき、乳母のお妙が身をもってこれを救った。亡骸は塚に手厚く「お妙塚」に葬られた。
形原松平氏は、家広の娘が家康の重臣石川数正に嫁ぐなど徳川氏の傘下で東三河の国人領主の一人として一定の地位を守り、天正十八年(1590年)、城主松平家信は家康の関東移封に従って形原を離れることになった。
関東で上総国五井(市原市五井)に5千石を領していた家信は、関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601年)に居城を形原に戻し、旗本となった。
元和四年(1618年)、家信は1万石を与えられて大名に列し、その所領は形原藩1万5千石となった。
しかし翌、元和五年(1619年)に家信は摂津国高槻藩主(高槻城)に移封となって形原を再び離れることになった。これにともない形原城も廃城となった。本丸のあった丘の峰には、地元の稲荷大社が建てられた。