増山城 (ますやまじょう) (和田城) (国の史跡)
最寄地 富山県砺波市増山1491 2014.10.24
増山城 (ますやまじょう) (和田城) (国の史跡)
最寄地 富山県砺波市増山1491 2014.10.24
登城ルート
入口の模擬門
石垣
一ノ丸跡
二ノ丸・鐘楼堂
左安室屋敷・空堀・右鐘楼堂
安室屋敷
馬洗池
三ノ丸
神保夫人入水井戸
増山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高80m】
【案内と感想】 和田川ダム管理事務所(表記番地)の手前に「増山陣屋」駐車場がある[マップコード40 244 328*58](地図)。
東のダム堰堤上を通ってゆくと、山麓に門が復元され案内板がある。
南に大手道を登って行くと、大手門跡があり、両側に堀切がある。門の先にF郭があり、「馬の背ゴ」と呼ばれる細長いE郭がある。
二の丸の北下に「又兵衛清水」の湧水が流れ出ている。一の丸、二の丸への途中に石垣跡があり、堀切を登ると比高約80mの一の丸(本丸)である。30m×70m程の広さがあり、「一の丸」の標柱がある。
東の二の丸(地図)は、東西100m、南北50mほどの広さがあり、土塁が残り、門・柵が建てられている。北に涸れる事のないと云われる「神水鉢」(旗立台)があり、東端の最高所に「鐘楼堂」跡がある。
二の丸の南に細長い「無常」や「鐘搗堂」と呼ばれる曲輪がある。二の丸の北に深い空堀で隔てられ「安室(あぢち)屋敷」があり土塁がよく残る。
空堀の東に「馬洗池」「三の丸」がある。空堀の道を北東に「御所山屋敷」を抜けてゆくと「足軽屋敷」があり馬洗池より500m行くと「池の平等屋敷」、「伝神保夫人入水井戸」がある。
その北、道路を挟んで約300m先に出城の 亀山城があり、石碑が建てられている。またその北東200mに孫次山砦がある。
昭和四十年(1965年)年1月1日、県の史跡に指定され、平成二十一年(2009年)7月23日、国の史跡に指定された。
【歴史】 貞治元年(北朝暦・1362年)斯波義将の配下の二宮円阿が和田城(増山城の前身)を警固していた。翌年桃井直常方の勢力が奪取したが、後に幕府軍により攻略されたとみられる。
永正三年(1506年)芹谷の合戦(般若野の戦い)で、 長尾能景が一向一揆勢力と対決し、討死した。
永禄三年(1560年)長尾景虎(上杉謙信)が越中に侵攻し、富山城主神保長職が追撃に逢い、増山城に落ちのびた。
永禄五年 (1562年) 神保長職が再起した為、再び上杉謙信が増山城を攻め、長職は降伏した。
永禄十一年(1568年)増山城の神保長職が上杉氏と結び、一向一揆勢と戦った。
元亀三年(1572年) 一向一揆勢力が増山城に拠った。
天正四年(1576年)上杉謙信が増山城を攻略し、上杉氏武将・吉江宗信が守った。
天正九年(1581年) 織田勢による増山城の焼き討ちが行われた。
天正十一年(1583三年)佐々成政が越中を平定し、天正十三年(1585年)佐々成政が増山城を整備、修築し、二重の空堀などが設けられた。
同年、豊臣秀吉が越中に侵攻し、佐々成政が降伏すると、増山城は前田氏の領有となり、中川光重(巨海斎宋半)が城主となった。
天正十四年(1586年)上杉景勝が上洛途中、中田で増山城主・中川光重の饗応を受けている。
慶長二十年(1615年)六月の一国一城令により廃城となった。