谷戸城 (やとじょう) (国の史跡)
最寄地 山梨県北杜市大泉町谷戸2414 2013.12.22
谷戸城 (やとじょう) (国の史跡)
最寄地 山梨県北杜市大泉町谷戸2414 2013.12.22
城跡碑・入口
帯郭・土塁
四の郭
三の郭・北虎口
二の郭・空堀
二の郭
本丸跡・土塁
谷戸城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内】 八ヶ岳の南麓に位置し、金生遺跡の北約800mに独立した丘陵がある。南にも駐車場があるが、北西にある北杜市考古資料館(表記番地)に駐車し、一の郭の頂上(比高約20m)へ登る[マップコード537 661 529*10]。
身を切るような寒さの中、北空堀を過ぎ、やがて四の郭に出る。南方に二の郭、本丸の土塁が見える。二の郭の虎口の内側には深さ2m位の空堀がめぐらされている。
本丸には二か所の虎口があり2~3mの土塁がめぐらされており、南に遠く富士山、北に八ヶ岳連峰、西に鋸山、甲斐駒ケ岳の南アルプスが望める。
平成五年(1993年)11月29日、国の史跡に指定された。
【歴史】 この城は、平安時代末期に甲斐源氏の逸見清光(1110~68年)が築いたと伝えられている。
平安時代、大治五年(1130年)佐竹氏と争っていた義清・清光親子は常陸国武田庄より甲斐国市川庄三郷へ流罪となる。逸見庄を本拠とした清光は、十五名の男子に恵まれ、その子らが甲斐の国に勢力を扶植したことから、甲斐の広い範囲を甲斐源氏が支配するようになった。中でも武田信義は平家討伐に功を挙げ、武田氏の礎を築いた。
『吾妻鏡』の治承四年九月十五日(1180年十月五日)条に拠れば、武田信義ら甲斐源氏一党は源頼朝の挙兵に際して「逸見山」に集結し頼朝からの使者を迎えたとある。
戦国時代に武田信玄の信濃攻めの中継地として使われた。
武田氏滅亡後、天正十年(1582年)いち早く甲斐国を抑えて新府城に拠った徳川氏に対し、信濃側から侵入し、若神子城を本陣とした北条氏が対峙した(天正壬午の戦い)。