太田本郷城 (おおたほんごうじょう) (太田本郷館)
最寄地 富山県富山市太田南町248 2014.10.5
太田本郷城 (おおたほんごうじょう) (太田本郷館)
最寄地 富山県富山市太田南町248 2014.10.5
円光寺
太田本郷城趾碑・説明板
説明板
浮田家住宅・長屋門
浮田家住宅・主屋
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 円光寺(表記番地)北の道路を西に60m行った交差点付近に「太田本郷城趾」の石碑及び「説明板」が建てられている[マップコード40 269 766*75] (地図)。
円光寺は斎藤新五の菩提寺と伝えられ、また新五の娘の病をなおした霊泉と伝えられる「的場の清水」がある。
また南方100mに、元禄三年(1690年)加賀藩より禄高5百石にて代々奥山廻役を任されていた豪農浮田家の住宅があり、国の重要文化財に指定されている。城跡に面するように旧立山街道が通っている。
【発掘調査】 平成三年(1991年)の発掘調査により、碑の場所から東へと延びる堀跡が発掘され、堀の中からは安土桃山時代の土器が数多く出土したことから、この堀跡が太田本郷城の有力な証拠となっている。
【歴史】 元亀四年(1573年)、上杉謙信の配下で越中方面の総指揮官であった松倉城主河田長親によって築かれた。
説明板によれば「上杉謙信の武将河田長親が、元亀三年(1572年)に一向一揆に備えて陣を張り、翌年に向城を築いたという記録があり、これが城の始まり」とある。
この年、富山城に拠った一向一揆勢は謙信によって撃退され、長親は越中国太田下郷(太田保に比定されるか)を拝領しており、太田保支配の拠点の一つとして築かれたと思われ、長親は越中国今泉に代官を置いて周辺を支配したと考えられることから、今泉城の「向城・付城」として築かれたとも考えられる。
天正六年(1578年)三月、謙信が死去し御館の乱が起き、越中国にも動揺が広がった。これを好機とみた織田信長は越中国人衆に調略を仕掛けて城生城主斎藤信利・信吉兄弟、小出城主唐人(かろうど)親広、願海寺城主寺崎盛永、木舟城主石黒成綱等を寝返らせると共に、飛騨国から神保長住、斎藤利治(新五・斎藤道三の末子)等を送り込んだ。
越中国津毛城を攻略された上杉勢は太田本郷城を放棄して今泉城に入り、織田勢は労せずして太田本郷城に入城した。
月岡野の戦いを経て今泉城を落とし、織田勢は一時的に越中国攻略の足場を築いた。
その後の太田本郷城の動向は不明だが、天正六年十二月に「椎名駿河守」(椎名景直か)なる者が上杉方から織田方へと寝返って、その見返りとして信長より越中国太田保を賜り(『織田信長朱印状』)、彼が太田本郷城へ入った可能性もある。
斎藤利治(新五)が治めたという説もあるが、彼は以後本能寺の変に至るまで織田信忠に付き従っている。なお、江戸時代の越中国今泉の十村に利治の後裔を称する斎藤家があった。