平時忠館 (たいらのときただやかた)
所在地 石川県珠洲市大谷町26−21 2018.6.15
平時忠館 (たいらのときただやかた)
所在地 石川県珠洲市大谷町26−21 2018.6.15
国道からの降り口
墓所の説明板と標柱
平時忠と一族の墓
木戸跡
館跡
館跡看板
平時忠の歌碑
平時忠館跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 平時忠及び一族の館跡で特に目立った遺構は見られない。県の史跡となっている平時忠及び一族の墓が垣根の中にひっそりと佇んでいる。
【案内】 国道249号線の大谷地区から大谷峠に向かうところに「能登平家の郷」の案内板が建てられ、駐車場が用意されている[マップコード329 848 353*16]。
階段を下りて5分位で「平時忠卿と一族の墓」に着く。平時忠を初代とし2代則貞時康から11代時兼までの則貞家の墓がある。最も背の高い五輪塔が時忠の墓とされる。
その50mほど東に「勝利木戸跡」があり、背後に館跡がある。
南に末裔の居宅があり、鞍干し場跡に平時忠の歌碑が建てられている。歌碑には「平時忠歌 白波の打ち驚かす岩の上に寝らえで松の幾世経ぬらん 山口誓子書」と刻まれている。
【歴史】 平清盛の妻時子の弟平時忠は、寿永四年(1185年)三月壇ノ浦の戦いに敗れ、捕われの身となり半年後の九月能登に流された。
『吾妻鏡』に拠れば、時忠は文治五年(1189年)二月二十四日配所で没した。
これに対し、時忠の末裔としてこの墓所を維持してきた則貞家の伝承によれば、当地に居を定め子をなし、元久元年(1204年)四月二十四日没したとしている。
時忠の5男時康が則貞家の祖で、6男時国が時国家の祖となった。